エジプト旅行での出来事を、物語っぽく書いてみた。

こんにちは。

2018年の9月にエジプト旅行に行ったのですが、その時にいくつか印象的な出会いがありました。

色々思うところがあり物語調で(つまり脚色して)書いてみました。

もし良ければご覧になってください。

題名:走れラムセス

登場人物

  • 卓也・・・・僕
  • ラムセス・・・エジプト人のタクシードライバー

場所

中部の都市ルクソール

本文

あいつはファラオで、ついでにタクシードライバーだった。

出会いは早朝、格安ホテルのテラス。その日は僕にとって旅の終わりで、ナイル川を渡るための案内人が欲しかった。

「よろしくな!」

右手を差し出して爽やかに微笑むのは、絵に描いたような好青年だった。

長身痩躯、お洒落で小綺麗。それでいてワイルドな力強さがあって、アメカジっぽい格好がよく似合っている。素直にかっこいい。

「よろしく。僕は卓也。タクだ」

 握手をしながら僕は彼を見上げる。

「タクか。へへっ、日本人のドライバーできて嬉しいぜ」

流暢な英語で世辞を言った。こいつはさぞモテるに違いない。僕は一目で彼に好印象を抱いた。

今日、彼に車を運転してもらうことになる。10日に及ぶエジプト旅行の間、僕はハズレのタクシードライバーを引きまくり、何度も酷い目にあわされていた。ところがどっこい、最後の最後でビンゴもビンゴ、ジャックポットの大当たりだ。と、僕は心の中で小躍りしながらガッツポーズをかましていた。つまり、浮かれていた。

 だけど、次に彼が発した一言が、僕の思考回路を一瞬でショートさせた。

「俺の名前はラムセスだ!」

「…………なんて?」

呆然自失。僕はあんぐり口を開け、ラムセスと名乗った青年をじっと見上げる。

 心の小躍りがぴたりと止まり、遠くでニワトリが鳴いていた。

 僕が驚いたのには訳がある。なぜなら彼がとんでもなく恐れ多い名前を名乗ったからだ。

 3000年に及ぶ古代エジプト文明における最強のファラオが誰かご存じだろうか。ツタンカーメン? クレオパトラ? アクエンアテン? それともクフ王? いいや、違う。最も多くの偉業をナイルの賜物に刻みこんだのはラムセス二世だ。

24歳で即位し66年間の長きに渡った彼の統治は、武勇の威光と文化の栄華に彩られている。リビアやヌビアを打ち倒して国土を広げるだけでなく、強国ヒッタイトとのカデシュの戦いでも活躍した。体格も大きく、自身も優れた戦士もだった。数多くの偉大な神殿を建築し、偉業を讃える詩も創らせている。ついでに言えば、数十人の妻と100人以上の子供を残した大絶倫王でもある。

実績十分、耳目を集めるエピソードだって山盛りの船盛り。日本で言えば織田信長や源義経のような存在なのだ。

 例えば、京都でタクシーをつかまえた時にホストみたいな運転手に「俺のことは義経って呼んでくれ!」と言われたら普通は仰天するだろ?

彼は一切の物怖じなくそんな大義を成したのだ。相当な大物と言わざるを得ない。

呆気に取られる僕を不思議に思ったのか、ラムセスは少し首を傾げた。

「じゃあ、さっそく行こうぜ!」

 ラムセスは道路に止めてある自分の車を指す。

猥雑なストリートのなかで、そのタクシーには精悍な存在感があった。黒い車体に白字でラムセス・タクシーと書かれている。行き交う他の車と違って傷や凹みもなく、丁寧に掃除されている。ピッカピカの美しいボディだ。

 僕の視線に気づくとラムセスは得意げに胸を張った。

 僕達の頭上で燦然と輝くエジプトの太陽にも負けない、力強い笑顔だった。

 僕は何でエジプトにいたのか? 夏季休暇を取ったからだ。

 どうしてエジプトにしたのか? 古代遺跡が好きだからだ。

どうして行こうと思ったのか? 現実逃避をしたかったからだ。

 ちなみに言うと一人旅。さらに言うと生まれて初めての海外。英語? 全然喋れません。

そんな阿呆丸出しの大愚行をやらかすほど、僕はウンザリしていたのだ。

何に? 社会からのプレッシャーとかいいようのない虚無感とか、仕事のストレスとかそういうやつに。つまり日々の暮らしに。どんどん結婚する友達、どんどん昇進する同期、どんどん増える仕事量と抜け毛。勝ち目のない消耗戦みたいな日常に僕の心はいつもグロッキーで、仕事帰りの僕の目には夢とロマンの大冒険が毎日のように揺らめいていた。

 そして、衝動的に取った休暇と航空券で僕はエジプトにやってきた。あれやこれやと騙されたりぼったくられたりしながらも、どうにかこうにか現実逃避を楽しめていた。

 そしてエジプト旅行の最終日、中部の都市ルクソールで出会ったのがラムセスだった。

「ほら、乗れよ。足元気をつけろ」

 ラムセスは助手席のドアを開けてくれた。

「分かった。ありがとう」

車が軽やかに発進する。ほぼ同時に名前について彼に尋ねる。

「君の名前は有名なファラオと同じなのかい?」

「ああ! 本当はイサークって言うんだけど、外国人は俺のことをラムセスって呼ぶんだよ!」

 それは君がそう呼ばせてるからだろう。僕は苦笑するが、ラムセスはあくまでも自然体だ。ふざけたり威張ったりしてる様子はない。

 たぶん、ラムセスという名前の響きが気に入ってて、なおかつ外国人に通りが良い、という理由だけで名乗っているのだ。しかも引け目を感じている気配はない。なんという自信だ。

「確認するけど、今日は西岸(ウエストバンク)に行くってことで良いんだよな?」

 ラムセスはゆっくり喋る。僕の拙い英語力に合わせているのだ。なんというジェントルだ。

「そう。僕は西岸(ウエストバンク)に行きたいんだ」

 ルクソールはナイル川の両岸にかけて広がっている。

「西岸(ウエストバンク)は良いところだぜ。ファラオの墓がいっぱいあって観光客が世界中から来てくれるからよ」

古代エジプト人は太陽が沈む西側を死者の世界だと考えていた。だから、東岸(イーストバンク)には生者に関する神殿が建てられた一方、西岸(ウエストバンク)には墓や死者に関する神殿が残された。いわば西岸(ウエストバンク)は死者の国なのだ。

タクシーは軽快に進み続ける。ファラオの運転は快適だ。

やがて、フロントガラスの向こうに巨大でモダンな鉄橋が見えてくる。

 橋の向こうは西岸(ウエストバンク)。死者の国。僕の冒険心はメラメラ燃える。

 ピッカピカのラムセス・ククシーは鉄橋の上をひた走り、僕達はナイル川を越えていく。

最初の目的地、王家の谷にはすぐ着いた。王族の墓が密集する砂漠の枯谷で西岸(ウエストバンク)屈指の人気スポットだ。

「俺はここで待ってるから1時間後に来てくれ」

 ラムセスは僕に笑顔を見せた後、スマホを取り出すべくポケットに手を入れる。

「分かった。それじゃまたあとでね!」

 マイペースなやつだとも思うが、僕が出会ったエジプト人は皆そんな感じだった。

まあ、そんなことは些事の極みだ。僕はロマンあふれる王家の谷に1秒でも早く向かうため、僕はドアを開けて外に出ようとした。

 と、思ったらなぜか身体が動かない。

「タク、待てよ!」

 おとこラムセス、なんと客の袖を掴む。

 温厚で草食的冴えないジャパニーズな僕も、さすがに怒髪天を衝く。

 だが、彼の顔を見てすっかり困惑する。

ラムセスはめっちゃ身を乗り出して、めっちゃ良い笑顔してる。しかも、「ワーオ!」とか言っちゃってる。フロントガラスの向こうを凝視してる。

 何なのよラムセスと思いながら僕は同じ方向を見て、固まり、それから大いに納得した。そして、笑ってしまった。

そこにはスタイル超抜群の美人がいたからだ。

「見ろよ、あの足! あの女の足! 超最高じゃね!?」

 ラムセスは僕の袖をくいくい引っ張り同意を求める。

 ただ、確かに彼女の足はセクシーだ。いや、訂正しよう。正直になろう。めちゃくちゃセクシーだ。ホットパンツからすらっと伸びた足がめちゃくちゃエロい。もう完璧。

「ああ、最高だな!」

 僕のテンションも爆上がり、ラムセスと同じように前のめりで美女を凝視する。実に良い足だ。ラムセスは美女発見アンテナの感度が良いな。中学生か。

「へへっ。西岸(ウエストバンク)から世界中の良い女が集まってくるんだよ」

「羨ましいぞ、ラムセス」

 ラムセスは本当に得意げだった。

「良い女がいる。へへっ、これ以上重要なことがこの世界にあるか!?」

 僕はついつい笑ってしまう。ラムセス、お前最高だよ。僕達は言葉を交わす代わりにハイタッチしたのだった。

 王家の谷の敷地内も、大勢の観光客でごった返していた。

 だが、日差しを遮るものは何もない。猛烈に暑い。雲一つない大空が絶望的に青い。死者の国だし少しは温度が下がるかとも思ったが、これじゃただの地獄だ。

日陰を求めるように墓に入れば、広々とした空間でひんやりとした空気が楽しめる。エキゾチックな壁画も楽しめる。

「綺麗だ……」

 ただ、手すりがあって壁画に近づけない箇所も多い。足場が危ない場所もあるし、観光客に触れられたら困るということもあるのだろう。

「もっと近くで見るかい?」

 耳元で男の声がした。振り返る。貫頭衣に身を包んだ役人だ。

ニヤニヤと笑い、顔がテカテカしている。

 僕はウンザリした。エジプト旅行中、どれだけこんな役人に声をかけられてきたことか。こういう輩に「見たいです!」なんて言ってしまえば、「じゃあチップ頂戴」とか言われるのだ。それも超しつこく。僕はため息をつく。

「静かにロマンに思いを馳せたいだけなのに……」

 エジプト旅行中、僕は何度もそう呟いた。

残念だな。ここも同じか、そりゃそうか。と僕は思う。

西岸(ウエストバンク)でさえ他の地域と同じだ。太古に築かれた死者の国の上に現代社会の現実は築かれている。僕のロマンは生者の糧になり果てる。

気持ちが萎える。エジプト旅行最終日なのに。

 その日、ラムセス二世の墓は公開されていなかった。

「お前、日本での暮らしはどうなんだ?」

 次の遺跡に向かう車内、ラムセスが尋ねる。

「暮らし、かあ」

 僕は東京での日常を思い返す。途端、口元に厭世的な笑みが浮かぶ。

 責任と仕事を押し付け合う職場。正義感に駆られて色々引き受ければ何もかも僕のせいになってて、どこからも理不尽に怒鳴られて。平日のストレスが身体に残ったままで過ごす土日は気も重くぐったりしてると、瞬く間に月曜日がご来光。そして、また繰り返される1週間。

「気が狂う、仕事のせいで」

「ははっ。俺の知ってる日本人は皆働きすぎで思い詰めすぎだ。エジプトを見習いな。真面目に働いてるのは俺だけだ」

 噛み合ってない慰め方だ。ただ、「俺の知ってる日本人」という表現は気になる。

 と思っているとラムセスがスマホを差し出した。

「タク、こいつを見てくれ」

 正直、若干面倒くさかった。なぜなら、そのスマホは王家の谷からタクシーに戻ってきたとき渋い顔でラムセスが睨みつけてたものだから。訳わからん話に巻き込まれたくない、と心配するもラムセスの爽やかな笑顔に釣られてつい受け取ってしまった。

 そして、「あらま」と驚いた。綺麗な女性が映っていた。しかもアジア系。たぶん日本人だな。ラムセスと一緒に映ってて、2人とも笑顔がエジプトの太陽みたいに眩い。

「この女の人は日本人?」

「そうだ。よく分かったな」

 ラムセスは得意げで、アクセルペダルに力が入る。

「ラムセスのお客さん?」

「俺の彼女だ」

「彼女!?」

「名前はユミだ」

 青天の霹靂の国際恋愛。なるほど確かに、ラムセスはモテそうだしな。納得だ。

「すごいね、綺麗じゃん!」

「実際に会うともっと綺麗だぜ」

 僕はスマホを返した。ラムセスはじっくり愛おしそうに画面を見つめた後、ポケットに閉まった。とっても良い話の途中に恐縮だが、現在ラムセスは大絶賛運転中だ。

 郷に入っては郷に従わないと。気付かなかったことにしよう。

「2人はどうやって出会ったの?」

「ユミが仕事でルクソールに来た時、変な物売りにしつこく絡まれてて。俺が助けてやった。そして恋が始まった」

「素敵な出会いだね」

「奇妙な出会いだな」

「ユミさんはエジプトに住んでるのかい?」

「いや、東京だ。会ったのは最初だけさ」

 薄々分かってはいたがやっぱりな。ユーラシア大陸を飛び越える超遠距離恋愛だ。

「とても遠いね……」

「ああ、そう簡単には会えないぜ。だから毎日アプリで話をしてんだ」

 ラムセスの顔はいつもどおりの爽やかさだ。だが、惚気を隠せてない。

 僕は思う。エジプトに来て良かった。

だって、恋するファラオなんて中々お目にかかれないだろ?

 それから、僕達は次から次へと遺跡を巡る。どこもクソ役人にチップを要求されたり、観光客のバカ騒ぎに興ざめしたり、侘びも寂びもへったくれもなかった。

でも、タクシーに戻ると渋い顔でスマホを見てたラムセスが顔を上げ、太陽みたいに爽やかな笑顔で僕を出迎えてくれた。僕達はくだらない話で馬鹿笑いする。ラムセスは脚フェチでベジタリアンで普通の35歳より若く見えることをやたら自慢する、どこにでもいる愉快な野郎だった。

遺跡を歩き回るよりラムセスといるほうがよっぽど楽しかった。

 だが、ラムセウムでの出来事が僕達の間の空気を変える。

ラムセウムはラムセス二世が建築した神殿の一つだ。だが、恐れ多くも名前を拝借したくせにラムセスは全く無関心。到着するなり例の如くスマホをいじる。

というわけで、僕はいつものように1人で向かう。

ラムセウムは他の神殿より小規模で、そのせいか観光客が少ない。静かな一時が流れている。めちゃくちゃ暑いけど。

「本当に静かだ……」

 朽ち果てた神殿を見て回る。しゃがみ込む。転がり落ちたラムセス二世像の生首と目を合わせてみる。視線、合っているような合っていないような。

 欧米人が飛ばすドローンの駆動音が空から降り注いでいた。

王の偉業を讃える詩歌が刻まれた壁も哀愁を誘う。役人達も他の遺跡みたいにしつこいわけではない。遺跡の周りには幼い物売りがいるけど、中までは入ってこない。

僕はこの遺跡が気に入った。死者の国に相応しい静謐さがあった。

ラムセスの名は最高だ、なんて考えながらピッカピカのタクシーへ戻っていった。

駐車場に戻ると、ラムセスが車の傍で誰かにスマホで電話をかけていた。通話しているのは初めて見たが、どうも繋がらないようだ。神殿に背を向け、苛立たしげに青空を見上げている。

「お待たせ!」

 僕が近づいても、ラムセスは顔を上げなかった。

 それから鬱陶しいものを見るような視線を僕に向けた。

「……ああ、戻ったか」

「う、うん」

「そうだな、次は……どこだったっけ……?」

 ラムセスはあくびをしながら面倒くさそうに助手席のドアを開けた。

「……ほら、早く乗んな」

 何だか魂が抜けてしまったみたいだ。

 僕はすぐには乗れなかった。ラムセスの態度にちょっとショックを受けたからだ。そして、そのちょっとは思いのほか強く胸の中で反響していた。

ラムセスの笑顔だけは本物だと思っていた。エジプトの太陽みたいな笑顔だけは本物だと思っていたのに。

僕はむかついた。金を一応払ってる立場なのに。それなのに。頭の中で怒りの言葉を英単語に変換し並び替えていく。

 だが、怒りの言葉が完成することはなかった。闖入者が現れたからだ。

「1ダラー!」

汚れた人形が僕の鼻先に突き出された。その持ち主は、物売りの小さな男の子だった。天使のように整った目鼻立ち、ボロボロによれた貫頭衣。飢えたハイエナみたいな必死の形相で人形を僕の身体を押し付けて、強引に買わせようとする。

「1ダラー! オンリー1ダラー!」

 男の子の切迫ぶりは異常で、虚を突かれた僕は突き飛ばされて助手席に倒れこんだ。

 そして、スローモーションのように時が流れる。僕は座席に尻餅をつく。ラムセスは驚く。男の子は倒れた僕の手元に人形を押し付けようと上半身を車に乗り込ませようとして、車体に手を触れた。

その瞬間、ラムセスが豹変した。

 男の子の身体が宙を舞うと同時に、ラムセスの怒声が駐車場に響き渡った。

 男の子は砂だらけのアスファルトに叩き落される。息つく暇もなくラムセスはアラビア語で怒鳴り続ける。砂まみれの男の子は震えている。だが、ラムセスは止まらない。完全にタガが外れてる。

止めなきゃと思った。だけど、動けなかった。

ラムセスが、怖かった。

恐らくラムセスはアラビア語で「失せろ」と言った。男の子は号泣しながら走り去っていく。

 ラムセスは男の子を一瞥さえせず、トランクからタオルを取り出す。男の子が手を置いたあたりを拭きだした。執拗に、取り付かれたように、アラビア語で何かをつぶやきながら。

 だが、無心で拭いている内に徐々に落ち着きを取り戻したようだ。申し訳なさそうに謝罪した。

「……悪かった」

「そんなことないよ」

「……お前はナイスガイだな」

 ラムセスはほっとした表情を浮かべ、砂漠にポツンと佇むラムセウムを眺める。もう一度スマホを取り出す。画面を見つめ、悲しそうに首を振った。

 その横顔はいつものラムセスからは想像もできないものだった。

砂漠の太陽みたいな笑顔というイメージを勝手に当てはめて、僕はラムセスの何を分かったつもりになってたんだろう。

たぶん、僕はずっとこんなことを繰り返してきた。勝手に期待して、勝手に裏切られて。社会に、同僚に、友達に、恋人に。

「さあ。次、行くか」

 ラムセスの笑顔に以前の爽やかさはなかった。

 それでも旅は続く。次の行き先はメムノンの巨像。

 僕達の旅の最後を飾る場所だ。

「俺とユミはな、互いの文化的な違いについては話さないんだ」

 ラムセスはハンドルを握りながら呟いた。

「文化的な違い?」

「互いの似てることと楽しいことだけ話すようにしてる」

「素敵だね」

 僕がそう言うと、ラムセスは寂しそうな笑みを形作る。

「ユミ、最近は色んなことにナーバスになってるんだ。仕事のことでも俺が遠いところにいることでも」

 たぶん、遺跡から帰ってくるたびにラムセスがスマホを見ていたのはユミさんと連絡を取っていたからだ。2人の間には、決定的な何かが今まさに起こっているのかもしれない。

「でも、1月にユミがエジプトにやってくる」

 ラムセスの言葉は自分自身に言い聞かせるようだ。

「今から楽しみだね」

「ああ。俺達はまた会える、1月に、絶対に」

 今は9月、2度目の逢瀬はまだまだ先だ。か細い繋がりを離さぬままそこまで辿り着けたとしても、3度目は――。

メムノンの巨像は荒野に佇む1対の石像だ。

 太古の巨像がぽつんと佇んでいるのにはノスタルジックな美しさを感じずにはいられない。

「俺は西岸(ウエストバンク)でメムノンの巨像が1番好きなんだ」

 僕の隣にはラムセスがいた。何の気まぐれか、一緒に巨像を見上げてくれている。

「ああ、クールな像だ」

 ラムセスは嬉しそうに頬を緩める。だが、すぐに寂しげに微笑む。

「タク、知ってるか? この像は2000年前には歌っていたんだよ」

「像が? 歌う?」

 あちこち崩れ落ちている像は当然だけど無表情だ。歌いだしそうな気配などあるはずがない。

「地震で像にヒビが入ったんだ。それで温度差や湿度の関係で岩が軋んで、夜明けになると歌みたいな音を出してたんだ」

「そう、なんだ」

 歌う巨像。死者の国に相応しい幻想的な話だ。でもなぜだろう。もう、そういう話に僕の心は反応しなくなっていた。

「だけど、エジプトを支配してたローマの連中が像を修復しちまった。そしたら、像は歌わなくなっちまった」

 歌わなくなった像。昔の人もがっかりしたに違いない。夢もロマンも失われ、ただの石くれと向き合う日々が始まるのだから。終わりの始まりってやつだ。

 ラムセスはこの巨像をどう見ているのだろう。やっぱり自分自身とユミさんに重ねているのだろうか。それとも。

 風が吹く。砂漠の砂が舞い上がり、ラムゼスの真っ白なスニーカーを汚していく。

「もう、この像は歌わないんだ」

 そして、僕達は生者の国に帰るべく西岸(ウエストバンク)を出発する。

 ナイル川を渡る鉄橋が見えてきたとき、ラムセスがぽつりと尋ねた。

「遺跡にいた役人ども、全然仕事してなかっただろ?」

「まあ、確かに」

「座り込んで監視してるふりだっただろ? あくびとかしてよ」

 ラムセスの口調から苛立ちが見え出した。車内の空気に不穏さが満ちる。僕は注意深く言葉を選ぶ。

「うん。彼等は真面目に仕事をしてなかった」

「あんな連中でも金はたんまりもらってるんだ。信じられるか?」

 だが、ダメだった。車内に充満していた怒りのガスに、一気に火がついた。

「毎日ハードに働いてる俺たちよりもな! ふざけんな、クソ喰らえだよ! だいたいな――」

 もう止まらない。マシンガンみたいに怒りの弾丸を暴発させている。訛りもきつくなってきて、何を言ってるのか全然分からない。壮絶な心の悲鳴が車内を震わせる。

だんだんハンドルがぶれはじめて、車が蛇行しはじめる。自分の安全を心配すべき状況だが、僕はそんなことを考えていなかった。ラムセスが怒りをぶちまける姿に、僕は胸を抉られていた。

「働いたら! 働いた分だけ給料が入ってくる! それじゃきゃ不平等だろ!?」

 最後にぶっ放されたその言葉だけは、聞き取ることができた。

「それが……それがあるべき……!!!」

車はあっという間に失速していく。目の前に見える鉄橋が全く近づいてこない。

 そして、ラムセス・タクシーは止まってしまった。

「ラムセス……」

後ろから多くの車に追い抜かれていく。

 ラムセスは額をハンドルに預け、頭を抱えたまま動かない。

「なあ、タク。俺の月収どれくだいだと思う?」

 あまりにもナイーブな問いだった。動揺している僕には何も答えられない。

「ごめん……分からないよ……」

 ホテルのフロントで料金は支払済だ。でも、それだけじゃ月収なんて分からない。

「適当で良い。なんか言ってみろ」

「10ドルくらい?」

「10ドルだと!? そんだけあれば!」

 ラムセスは怒りに任せてハンドルをぶん殴ろうとしたが、ぎりぎりのところで彼の手は止まった。

「……それだけあれば良いけどよ」

 ラムセスは打ちひしがれたように頭を抱えた。

 沈黙が立ち込める。背後から、クラクションが聞こえる。

「答えはな、ゼロだ」

 その瞬間、ガラスが砕け散る様な衝撃が僕の心を襲った。

「じゃあ、僕がホテルで払ったお金は……」

「全部元締めが持ってく。これはあいつらの車だからな」

 ラムセスが大切にしているこのタクシーは、ラムセスのものじゃなかった。

「だから、傷をつけられるとやべえんだよ……」

 ラムセスが苦々しく言う。つまり、あの男の子が車に傷をつければ厄介ごとになっていたのだ。男の子にも事情があったはずだが、もう知ることは出来ない。

 それに衝撃的なのはゼロという数字だ。収入がなければ生きていけないはずだ。

「ラムセスはどうやって生活を……」

「俺の取り分はチップだけだ」

 本当にちょっとした金額だけが彼の収入だった。

「ケチなやつばっかり相手にしちまった日は、丸一日ただ働きなんだよ……」

 ラムセスにはお金がない。だから、ユミさんの傍に行けない。傍にいてやれない。

「金さえあれば、どこまでも駆け抜けてやるのに……」

 それでもラムセスの車は再び走り出す。のろのろとではあるけれど。鉄橋の上を進み、死者の国から遠ざかっていく。

 ラムセスは自分を鼓舞するように大仰に肩をすくめた。

「でも、この仕事は好きだぜ。こうやって色んな国の人と話せるのは楽しいしな」

 何を言えば良いのか、やはり分からなかった。

ただ、僕は今まで知らなかった世界を覗いてしまった。

ラムセス・タクシーは鉄橋を渡り、僕を生者の国へ連れていく。足元に流れる悠久のナイルも、ラムセスの不条理を洗い流してはくれないらしい。

 そして、僕は何不自由なくホテルへと送り届けられた。あっけない、旅の終わり。

「ありがとよ」

ラムセスは助手席のドアを開ける。彼の目は僕が取り出した財布を凝視していた。

 僕はラムセス・タクシーから降りる。

ドアの前に立ったラムセスは両手を前に組み背中を丸めて立っている。

チップの時間だ。大きいラムセスがびっくりするほど小さく見える。

 僕は少し悩む。自分がやろうとしていることは偽善じゃないか。だが、すぐに考え直した。

僕は最高の誠意をもって臨むのだ。なぜならあいつは最高の友達だからだ。

「ラムセス、すっごく楽しかったよ!」

 僕は最高の感謝を込めた金額を彼の手に強引にねじ込み、足早にホテルに向かう。

 僕は僕の道へ。彼は彼の道へ。僕達はもう二度と会わないだろう。

 背後でラムセスが息を呑む気配がする。どうやら驚かせてやることができたらしい。

「おい、待てよ!」

 ラムセスの声を無視する。振り向かない。僕だって少しは格好つけたいから。

 ラムセスが駆け寄ってくる。そして、僕の背中に手を当て力強く押した。すごい力だ。僕は一歩前に踏み出してしまう。

「タク! しっかりやれよ! マイフレンド!」

 ラムセスの言葉を背に受けて僕は進む。

「ラムセス、立ち止まるなよ!」

振り返らないまま僕は叫んだ。

「走れラムセス!」

「タク、てめえもな!」

僕はロビーを走り抜け、階段を一気に駆け上がる。

鍵を開けて部屋に入った。独りぼっちの室内。見慣れたスーツケース。清潔なベッド。少し安心する。それから施錠する。背中にはラムセスに叩かれた痛みと温もりがまだ残っている。なぜか分からないけど、涙と嗚咽が止まらない。

幾つもの繋がりが消えようとしている。

だけど、無為に消えていくわけじゃないはずだ。

靴についた砂を払い落としたあと、僕は帰国の準備を始めた。

終わりに

最後まで読んでくれてありがとうございました。

もし感想があったら是非教えてください。

それでは。

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