ツタンカーメン 少年王の謎/河合望

こんにちは。

『ツタンカーメン 少年王の謎』は日本で最も名前の知られたファラオの一人ツタンカーメンに関する本です。
彼に関するオカルト的な含む様々な謎について、最新の研究成果をふんだんに交えて紹介しています。

著者の河合望先生は金沢大学で教授職に就かれています。

それでは、個人的に面白かった点をまとめます。

『ツタンカーメン 少年王の謎』オカルト的に愛されたファラオの最新の研究成果について

本書の内容は大きく3つに分類されます。

  • 20世紀初頭におけるツタンカーメン王墓の発見
  • ツタンカーメン即位以前の古代エジプトについて(第十八王朝から)
  • ツタンカーメン王の生涯と死後

では、それぞれについて見ていきましょう。

20世紀初頭におけるツタンカーメン王墓の発見

カーターとカーナヴォン卿

20世紀初頭、ツタンカーメン王の存在を示す史料はまだ少なく謎のファラオと考えられていました。

そんな折、ツタンカーメン王墓の情熱を燃やしたのはロンドン出身のハワード・カーターです。彼はエジプトの壁画模写で才覚を示し、考古学者への道を突き進みます。


その後、順調に出世し、サッカラ遺跡の局長を務めていました。しかし、そこで横暴な観光客との間にトラブルが起きた時に謝罪をするのを拒否し、辞表を提出することになります。

そこで彼のパトロンとなったのがカーナヴォン卿です。カーナヴォン卿は自動車事故による後遺症で冬場の痛みに悩み、エジプトに滞在していました。そして、古代エジプト文明に徐々に興味を持つようになります。
発掘を行う気はあれど、いかんせんカーナヴォン卿は全くの未経験者です。
そこでハワード・カーターに白羽の矢が立ちました。

ツタンカーメンの発見

二人は徐々にツタンカーメン王墓の発掘に力を入れるようになります。
しかし、なかなか成果が出ません。しびれを切らしたカーナヴォン卿から資金援助の中止を言い渡されます。しかし、カーターは後一年の延長をどうにか勝ち取ります。

そして、本当にツタンカーメン王の墓を発見します。
しかも、中にはほとんど無傷の副葬品が眠っていました。


その後、世界中から押し掛けるマスコミや要人との対応に苦慮しながら、また政治的な理由で発掘の許可が遅れたりしながらも多くの埋葬品を発掘していきました。

オカルトの権化:ファラオの呪い

そして、当時の世界をにぎわせたのが「ファラオの呪い」です。

発掘の最中におけるカーナヴォン卿の病死、カイロ全体の停電、カーナヴォン卿の愛犬も突然死。ある新聞は王墓のアヌビス像にあった「秘密の部屋を砂が埋めるのを防ぐのは私である。私こそが死者の守護者である」という文言に「そして、永遠に生きる王の神聖な領域に足を踏み入れる者はすべて殺す」を付け加えて紹介し、呪い説を煽りました。
そして、ツタンカーメン王墓関係者の死は全て呪いのせいにされました。

ただ、その実態は、亡くなった者の多くは高齢か持病を抱えていただけです。

呪いの話が盛り上がった原因は、カーターのライバルの考古学者アーサー・ワイゴールが紙面を盛り上げるためデイリー・メール紙に呪いについて書いたためと考えられています。


ワイゴールはカーターに激しく嫉妬していたそうです。

ツタンカーメン即位以前の古代エジプトについて(第十八王朝~)

第十八王朝成立

ツタンカーメンも連なる第十八王朝は、当時エジプトを支配していたヒクソスを駆逐してエジプトを再び支配した王朝です。
トトメス三世はシリアの一部とパレスティナを制圧し、西アジア随一の影響力を誇るようになります。

当時、テーベの土着神アメンと太陽神が習合したアメン・ラーが信仰されていました。そのことにはヒクソスを追い払った第十八王朝初代ファラオ イアフメスがアメン・ラーを信仰していたことも影響しています。

第十八王朝歴代のファラオ達はアメン神信仰の総本山テーベのカルナク神殿に、戦利品を捧げるようになり、大規模な改築を繰り返していました。

これによってアメン神官団の影響力が強まっていきます。

偉大なるファラオ:アメンヘテプ3世

アメンヘテプ3世は39年に渡って平和と安定の時代を気付いたファラオです。
軍事的衝突はなく、ミタンニ、バビロニア、アルザワといった大国の王妃と婚姻関係を結び同盟関係を築いていました。

また、後にあのラムセス二世に名前を書き換えられてしまうものの、多くの神殿を建築しました。

異端のファラオ:アメンヘテプ4世(アクエンアテン)

アメンヘテブ4世は、アテン神という別の神を信仰の対象として神殿を建てます。
広域化していたエジプト全域を統べるには土着色の薄く太陽の日輪を表わすアテンが適切と考えたようです。

彼は新都アケトアテンの建築、アクエンアテンへの改名も行いました。
テーベのカルナク神殿と距離を置くためです。
これにより王朝は西アジア遠征やヌビアからの黄金による富を蓄積できるようになりました。

さらには神々という表記から神という単数形への表記変更に特徴的に現わされる唯一神的なアプローチを見せます。

その一方で他の神々を崇拝していた神殿は祭祀が継続されなくなり、エジプト全土は経済的にも立ち行かなくなっていきます。

また、外交的にはヒッタイトにシリア・パレスティナを奪われ、エジプトの威信は下がっていくことになります。

ツタンカーメン王の生涯と死後

ツタンカーメンは何処から来たか。

ツタンカーメンは当初ツタンカーテンという名前でした。
従来、ツタンカーメンはアヘンヘテプ3世の子どもと考えられていましたが、近年では史料やミイラのDNAからアクエンアテンが父と考えられています。
また、養母であったマヤが強い権力を持っていたことも分かっていますし、養育長センケドと後見人アイも強い影響力を持っていました。

即位するツタンカーテン

アクエンアテンの死後は、ネフェルネフェルアウテン女王が王座に座っていました。
彼女はアクアエンアテンが禁じた多神教の復活に向けて動いていましたが、自身はアケトアテンでアテン神を信仰していました。
そして、それが急進的な多神教復活を望む貴族の反発を買ったのか、彼女の消息は治世三年目に突如として途切れてしまいます。

そして、ツタンカーテン(のちのツタンカーメン)が即位することになります。
およそ10歳前後の即位でした。

後年人アイや大将軍ホルエムヘプなどがその後ろ盾になっていたのは明白です。
ちなみに即位前から王妃アンクエスエンパーテン(のちのアンケセナーメン)は婚姻していた可能性もあります。

そしてエジプトの復興が進んだ後、伝統的なアメン神のもとでツタンカーメンとしてもう一度即位します。

またエジプト王朝開闢の地メンフィスに遷都しています。

ツタンカーメン王を取り巻いていた状況

彼の治世は多くの有力貴族に支えられていました。
乳母セティ、後見人アイ、第諸王軍ホルエムヘプなどが有名で実質的に権力を握っていたのは彼等だと考えられています。

特に王族ですらない乳母セティの墓にツタンカーメンが描かれているのは非常にまれなことなのだそうです。

ツタンカーメンの死

9年間王位にあった後、ツタンカーメンは亡くなります。
ヒッタイトからの攻撃を受けた直後というひっ迫したタイミングだったようです。

妻アンケセナーメンは自分の配下の者を王位につけたくないとしてヒッタイトに王子を夫として自分に送るよう頼みます。
しかし、エジプトに至る途中で暗殺されてしまいます。


そして、配下のアイがファラオの座につくことになりました。

その後の動乱の中、アクエンアテンと彼に関連するファラオは歴史からその名を削られてしまいました。

結び ツタンカーメンと発掘のロマン

ツタンカーメン、かつてはオカルト的に盛り上がったこともあるですね。(世代ではないので分かりません)

ただ、生前の彼にしても死後の財宝にしても発掘の過程にしても、好奇心をくすぐる何かがありました。


個人的にはアンケセナーメン王妃との関係も気になるところです。
十歳程度での政略結婚、おそらく色々と振り回されたことでしょう。
王の死後に二十歳そこそこの王妃がとった異例の行動の裏には、どんな意味があるのかも色々考えてします。


それでは。

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