「自分を愛せない者に誰かを愛せるはずがない」
自分のことも愛せない奴に、誰かのことを愛せるはずがない。
最初に言ったのは誰かは知らないけど、世界中のメディアで頻繁に取り上げられる常套句だ。
確かにその通りだと思う。
劣等感に囚われているときは自分への愛情を希求しがちだし、それは残酷なまでに視野狭窄に直結する。
誰かを愛するなら、まずは自分を愛するべきだ。
概ね、仰る通り。
ただ、僕はこの言葉が好きじゃない。
あまりにも一面的すぎるからだ。
この言葉には極端な自己肯定感がまとわりついている。
愛さなければいけないのか。
自分を愛そう。貴方を愛そう。
愛することに、人生の意味を預けすぎているのではないか。
誰かを愛することは大切だ。だからまず自分を愛するんだ。
なぜなら愛することは大事だから。
言外にそんな意味を込めて言われることが、極めて多いように感じる。
この言葉は2種類の使われ方があるように思う。
1つは祝祭的な自己肯定感だ。
抑圧的な社会からの解放感に身を任せてハイになり、連帯感ととも自由に酔いしれる。
もう1つは自分を愛せない誰かへの強烈な否定だ。
これは文化系的なカルチャーにおいて良く現れるパターンで、自尊心の問題と関連づけられている。
自己なり他者への明確な攻撃で、苦々しい現実をバケツ一杯の氷水をぶっかけるようにして受け入れようとさせる。
ある意味、どっちも正しいとは思う。
でもさ、確かに正しいけどさ、どう考えても、どっちも極端じゃない?
まあ、愛せるならそれにこしたことはないだろう。
でも、愛せなかったとしても、ただそれだけのことじゃないか。
自分のことが嫌いって、そんなに異常なのか?
誰かを愛せないって、そんなにおかしなことなのか?
誰かを愛するために無理矢理自分を愛そうとする必要はないと思うのだ。
そうやって自分を苦しめて、自分を傷つける必要もないと思うのだ。
無理に自分を愛する必要もない。
無理に誰かを愛する必要もない。
誰にだって想像力の限界がある。
多様性という言葉、僕も大好きだ。
でも多様性にはその言葉を発する者の想像力の限界が常に付きまとうことを理解しなくてはならない。
そして、「自分を愛せない者が誰かを愛せるはずがない」という言葉には、想像力の欠如に対する無自覚さが付きまとっていることがほとんどだ。
無知の知に対する自覚のなさ。
それこそが多様性が認められない主要因であるはずなのに。
多様性は手に入れるだけでは意味がない。
日々その意味を考え、問いかけ、進化させ続けなければ、瞬く間に化物じみた何かに変わる。
いつかのトロフィーみたいに誇らしげに飾っているだけでは駄目なのだ。
自己肯定は人工着色料にまみれた派手でスイートなものでもない。
どろどろに煮詰めた珈琲を無理矢理美味しいと言い聞かせるようなものでもない。
フローリングの床に零れ落ちる小石のように、どこまでもドライで自然なものだ。
そうじゃければ、残念ながら地獄はまだ終わらない。
木漏れ日の下で
「自分を愛せない者が誰かを愛せるはずがない」という言葉は、たぶん愛を求める悲壮な咆哮なのだろう。
そして、奪い合うために互いを殺し合う牙でもある。
所詮この世は生存競争。
誰もが殺し合い、戦いあっている。
猛る獣のような皆を心の底から尊敬する。
だけど、僕は疲れ果ててしまったし、もう関わりたくない。
そして、そんな自分を否定する気にも、正直なところ全くなれない。
心地よい木漏れ日の下で、穏やかな気持ちで昼寝できたら良いのに。

すごく共感しました。
ブログ主さん 文才すごいですね。
ヤドランさん
コメントありがとうございます。
共感していただけたならうれしいです。僕自身すごく共感する相手が欲しいと思って書いた文章ですので……。
また、文章をほめていただけたことも本当に励みになります。拙文を読んでいただき、誠にありがとうございました。