巧みな弁舌で理不尽に立ち向かうオアシスの農夫『雄弁な農夫の物語』



こんにちは。

紀元前文学 その14、今回は古代エジプトから『雄弁な農夫の物語』です。

中王国時代の中頃にあたる紀元前19世紀頃に成立したとされている物語で、現存するエジプト文学の中では最長にあたる作品の一つになります。

『雄弁な農夫の物語』のあらすじ エジプト中王国時代的な正義思想

では、例の如く、あらすじから見ていきましょう。

主な登場人物

  • クーエンアンプー 農夫。ナイルから流域から少し離れた『塩の原』から交易に行く。
  • トゥトナクト 小役人。言いがかりをつけてクーエンアンプーの積み荷を奪う。
  • レンシ トゥトナクトの上役。物語の舞台となる地域の領主。
  • ネブカウラー・ケティ 紀元前21世紀のファラオ。退屈している。

(1)クーエンアプー、交易の旅に出るも、いきなり積み荷を騙し取られる。

クーエンアプーは妻や子供と一緒に「塩の原」と呼ばれるオアシスで暮らしていました。
ある時、食糧がなくなってきたので子どもたちの食糧を確保するために、ナイル川流域まで交易に行くことにします。

そして、ロバに天然炭酸ソーダ、塩、毛皮、鉱物などオアシスの特産品を載せて旅立ちます。



しかし、しばらく南に向かっていると、トゥトナクトという男と遭遇します。
トゥトナクトクーエンアプーのロバと積み荷に価値があることを見抜き、欲しくなります。

そして、一計を試みることにします。

  • 道路にクーエンアプーの行く手を塞ぐように布を広げ、「わしの着物を踏みつける気か」と嫌がらせをする。
  • 着物を避けた結果、大麦畑を通るクーエンアプーに対し、「わしの大麦畑を道にする気か」と難癖をつける。

当然クーエンアプーが簡単に引き下がるわけもなく、話は混沌としてきます。
そんなこんなをしていると、クーエンアプーのロバが足元の麦を一口食べてしまいます。
それを口実にしてトゥトナクトは棒でクーエンアプーを殴り、積み荷を奪い去りってしまいました。

その後、クーエンアプーは10日間に渡って積み荷を返すよう訴えましたが、トゥトナクトは取り合おうとしませんでした。

(2)クーエンアプートゥトナクトよりも偉いレンシに直談判する。

らちが明かないことを悟ったクーエンアプーは、周辺地域の領主レンシに直談判すべく、屋敷の前で待ち伏せします。


そこでレンシの家臣を自分のところによこすように依頼します。
家来は顛末をクーエンアプーから聞き、レンシに報告します。
(直接領主に報告をしない、というのが習わしなのかもしれません)


家臣はトゥトナクトに対して軽い罰を加えるだけでよいと進言しますが、レンシは何も言いません。
一方、クーエンアプーは弁舌巧みに長々とレンシに対して正義の執行を訴えます。

(3)レンシ、何故かファラオに相談する。

しかし、レンシはどうすべきか決めかねたようです。
なんと国のトップにして神のごとき存在であるファラオ 
ネブカウラー・ケティに相談をするのです。

そして、話は予想外の展開へと動きます。
退屈をしていたネブカウラー・ケティクーエンアプーの弁舌を大変気に入ったようなのです。
そして、もっと聞きたいと思ったようです。


ネブカウラー・ケティレンシの3つの命令を下します。

  • クーエンアプーの言うことには何も答えるな。彼に話し続けさせるためだ。
  • クーエンアプーの言葉を書き留めておけ。我々が後で聞くためだ。
  • クーエンアプーと家族の食糧は保証してやれ。ただし、手配をしているのがお前だとはバレないようにしろ。


……完全に瀬戸際に追い込ませてその反応を楽しむつもりです。
ネブカウラー・ケティ、恐ろしいですね。

(4)クーエンアプー、怒涛の訴え9連発。

そんな内情を知らないクーエンアプーは必死にレンシに訴え続けます。
実に巧みな比喩表現を用いて、
レンシが正義を実行していないことを切々と語ります。
感情表現の度が過ぎて鞭で打たれることがありましたが、クーエンアプーは諦めずに訴え続けます。

しかし、レンシは何も答えません。
何せそれがネブカウラー・ケティの命令です。
黙り込み、彼の言葉を記録していく以外に他ありません。

そして、9回目の訴えにもレンシが何も答えなかった時、クーエンアプーは自殺を決意します。

レンシは慌てて引き留めます。
そして、ネブカウラー・ケティに確認を取った後でトゥトナクトに裁きを加えることを決意します。

財産はクーエンアプーに返され、さらに奴隷としてトゥトナクト自身も引き渡されたのでした。

『雄弁な農夫の物語』の魅力とは エジプト的弁論術と自由気ままなファラオ

農夫が畳みかける弁論術

ラップみたいな畳みかけ方

クーエンアプーの話術が、この物語の全てと言っても過言ではないでしょう。
海、湖、船や動物などの比喩を巧みに用いて自分の窮状を訴えたり、レンシをほめたたえして、怒涛の勢いで正義の執行を訴えます。
それも、すごい長口上で。

具体例として、最初の嘆願の一部分を見てみましょうか。

「あなたさまが正義の湖に船出なさいますときは、順風を受けて船を走らせなさいますように。<はやて>が帆をひきさかず、船がのろのろ進んだりせず、マストが傷つくこともなく、帆桁もこわれず、(陸)地に<横づけにな>っても、<沈没>せず、流れがあなたさまをおし流さず、あなたさまが河の害を味わったり怯えた顔を見たりすることもないでしょう。臆病な魚(も)あなたさまのもとにはやってくるし、一番良く肥えた鳥を手に入れるでしょう。なぜなら、あなたさまはみなしごには父親、未亡人には夫、離婚者には兄弟、母のないものには腰巻(にあたるお方)だからです」

『雄弁な農夫の物語』p.68,「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

と、まずは湖の比喩によってレンシを褒め称えます。



続いて、

「わたくしにこの国でのあなたさまのお名前をあらゆるよき法律よりも高めさせてくださいませ。おお、貪欲さのない指導者、悪事のない偉大なお方、偽りを滅ぼし、正義をもたらすお方、声を上げるものの叫びに(答えて)こられるお方。わたくしが話をするとき、お聞きくださいますように。正義をなさいませ。おお、讃えられるもの(まで)が、ほめ讃えるほめ讃えられたるお方よ。わたくしの悩みをとり払ってください。わたくしが(どんなに)苦しんでいる(か)ごらんください。わたくしを気にかけてください。わたくしは貧窮しておるのでございます」

『雄弁な農夫の物語』p.68,「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

レンシを誉めたたえていますが、これは要するに「お前は偉いんだから社会的な義務たる正義を果たせ。奪われた俺の財産をなんとかしろ」ともったいぶった表現で言ってるだけじゃないでしょうか。

言ってること自体は単純なんですが、巧みに表現を変えることによって自分の意思を畳みかけるようにぶつけているわけですね。
そして、これより長いものを9回も出来るのですから確かに雄弁です。


このあたりの「実はシンプルで、力強さが売り」という感じが、ラップミュージックにも通じる気がします。原文では韻を踏んでるようですし。
非常にエネルギッシュな感情表現は、確かに個性的です。

もっとも、それが徒となってネブカウラー・ケティの退屈しのぎに使われてしまうのですが……。


比喩表現から見る、農夫の日常世界観

また、クーエンアプーは比喩として水に関するものや天秤に関するものを多用する傾向にあり、それを読むのも面白いです。

「傾く秤、それる錘り、うそつきとなった公明正大な人より悪いものがあるでしょうか」

『雄弁な農夫の物語』p.70「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

「人みなすべての生活は(ナイル川の増)水と同じようにあなたから<くるのです>。あなたは牧場を緑にし、荒れた地を肥沃にするハピでございます」

『雄弁な農夫の物語』p.72「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

「網漁師は流れを荒らします。ほんとうに、あなたはこの人たちに似ています」

『雄弁な農夫の物語』p.72「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

彼が行き来していたのは、オアシスとナイル川流域の間です。
水辺で交易していたクーエンアプーの感覚が垣間見えて面白いですね。

諺の数々

また、当時人口に膾炙していたであろう諺を頻繁に織り込んでいるのも特筆すべきと言えます。

『貧乏人の名前は、その主人のためにだけ口に出される』

『雄弁な農夫の物語』p.66「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

『こらしめは一時のこと、悪は長期のこと』

『雄弁な農夫の物語』p.71「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

『明日がやってこないうちから明日の準備をするな。明日にどんな悪いことがあるのか誰も知らないのだ』

『雄弁な農夫の物語』p.75「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

最後の諺は積極的に使っていきたいです。


ファラオの自由気ままさ

ネブカウラー・ケティさん、なかなか強力でしたね……。
退屈しのぎのために、命がかかっている下々の者をもてあそぶのですから。

それも民の生活が全く分からないからついやっちゃったというものでもなく、クーエンアプーが追い込まれていると分かったうえでやってるのですから。

「こうした農民は、家が完全にからにならないうちにはやってこないものだからじゃ」

『雄弁な農夫の物語』p.69「エジプト神話集成」,ちくま学芸文庫

ネブカウラー・ケティは中間期と呼ばれる政情が安定していない時代の王でした。
ドライで、刹那的な楽しみに身を任せる人間だったのかもしれません。

まとめ 『雄弁な農夫の物語』 古代エジプト人の考える正義。

『雄弁な農夫の物語』、面白かったです。

あの手この手で言葉を変えて奪われた財産を取り返そうとするクーエンアプーには、生きるためには必死にならなくてはいけない古代エジプトの厳しさを感じました。
でも、今の我々だってそういう必死さがなくては生きていけないですよね。

奪われた財産は持ち主のもとに返されるべき。作品の中で我々にもなじみ深い倫理観が主張されますが、実際には役人達が邪魔をすることもあります。
結局のところ、そんな倫理観どおりに物事を勧められるかは自分次第です。そんなところも似ています。

現代人にとっての理不尽な運命に等しい力を持つファラオは、猫みたいに気まぐれですし。

場所も時代も関係なく、正義は守るためにあるのではなくつかみ取るためにあるのでしょう。




それでは。

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