サバルタンは語ることができるか/G・C・スピヴァク

今日西洋から生じてきているもっともラディカルな批評のいくつかは、西洋という主体あるいは主体としての西洋を保持しようという、ある一つの利害にもとづいた欲望の所産である。

G・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』みすず書房,1998,P3

「西洋」「批評」という言葉は、現在社会を象徴するような他の言葉にも置き換えられるように思います。

学生時代に尊敬していた先輩から「お前は読んだ方が良い」と言われて手に取ったものの、頭の出来が悪く、教養も足りていなかったため「難しい……」と思った記憶がある一冊です。ただ、不意に出てくる鮮烈なセンテンスの数々は、今でも私の中に残っています。

正直、今読み返しても難しかったです。今も教養もないし、頭は悪いですから。一応、個人的に記録しておきたい部分と印をまとめておきました。

『サバルタンは語ることができるか』個人用要約

(1)主体の有無

マルクス主義やデリダの思想に基づいて、サイードへの共感を示しつつ、西洋/男性が中心を占めている知識人層の考え方――他者理解の仕方が一面的かつ横暴――を批判する、という内容です。

主な分析対象はドゥルーズとフーコーの対談テキスト。知識人階級が労働者(つまり、他者)を語るとき、それはその言葉に潜んだ多様性を無視し、一枚岩的な存在を想定しているとスピヴァクは批判。例えば、国内の労働者と「第三世界」の労働者ではその実態は違います。

そのうえ、他者を語る主体である彼等自身を、無色透明な観察機のように扱っています。自分自身に必然的にまとわりく考え方の歪みは考慮されません。

その結果、知識人の語る「他者」が「自己の影」(=自分の想い・感情が投影された存在)になっている可能性が指摘されています。要するに、他者を自分にとって都合の良い存在へと仕立て上げているわけです。

また、「他者」の観測者がどうしてもイデオロギーに縛られる以上、「他者」の真正さよりも他者生成のメカニクスに焦点をあてたほうが有用であるとも指摘しています。

(2)サバルタンは語ることができるか

サバルタンとは権力構造の最下層に位置する人たち。文章などで己を語る機会がある知識人たちと違い、彼等が何を考えていたのかは、知識人のような代弁者を通してしか分かりません。

インド出身の女性研究者であるスピヴァクは自らの母国の風習を取り上げます。

インドの一部の地域では、夫が亡くなった後サティと呼ばれる寡婦の焼身自殺が行われていました。
インドを支配をしていたイギリスはその風趣を野蛮と非難。「哀れな」インド女性を救い出すべく、風習を廃止させます。しかし、インド土着の有力者たちは、寡婦たちは望んで死んでいったと憤慨します。

女性の声は残されていません。ただ、古代から伝わってきた法典において自殺は禁止されています。定められた形式に沿って(それは真理を正しく認識し、実行したことを意味する)、ほぼ女性にのみ許された亡夫の火葬用薪で死を選ぶ(夫への献身さを示す)という条件が重なれば、自殺は許されます。それどころか、美談とされていました。

また、サティが許されていた地域の一部では、寡婦が財産の相続権を持っていました。美談を出汁にして、親族から死を迫られていたのかもしれません。自発的だったとしても、そうでなかったにしても、社会システムは、彼女たちを自殺へと誘導していたのです。

そんな状況からインドの女性たちを「救い出した」欧米の男性もまた、自分たちに都合の良い「他者」像を彼女たちに押し付けていました。サティで亡くなった者の名前に対して「どれが一番かわいい名前か」と論評しながら「自分の女」であるかのよう眼差しで彼女たちを分析した者がいたことに、スピヴァクは怒りを露わにしています。

1926年、16~7歳の女性バッドリーが自宅で首を吊りました。原因は、当時のインドでは大問題だった許されざる妊娠ではありません。バッドリーはインド独立を目指す武装組織に加わっていて、暗殺を命じられました。責任と良心の呵責に苦しみ、命を絶ちました。

しかし、スピヴァクがこの件について精査する前、親戚に聞き込みを行ったところ自殺の原因は「許されざる恋愛関係」として片付けられていたそうです。

バッドリーの苦悩は誰にも知られていなかったのです。
サバルタンは、語ることができません。

個人的印象:今回の学び

学生時代と同様、「他者」を語ることには慎重にならないといけないと思いました。
我々は他者の一面しか知らないし、その一面に自分の都合/願望/感情を投影しがちです。

特にマイナスの感情を向けている相手の場合は(なおかつ、自分がその状態にあることを上手に認識できていない場合)投影がかなり歪み、精度の良くない理屈を数多く繰り出しがち。というのが個人的な印象です。もちろん、勉強になるモノもあります。ただ、自尊心を守るためだけに、もはや理屈の呈を成していない相手を貶めるためだけの発言を延々続ける方も少なくありません。

また、ヘイトスピーチなどが典型的な例だと思うのですが「自分の差別的言動で相手を傷つけたことの意味をきちんと想像できていない(想像したくない)んだな」と感じる出来事が増えているように思います。色々観察していると、(1)何か自尊心を損なうことが起きて、(2)自分のメンツを守るために都合のいい(攻撃してもいい)「他者」を生成している、というパターンが多いようです。自分からも相手からも目を逸らす典型的な逃避/転嫁だと思うのですが……。

何にせよ、歴史に名を残す知識人でさえ致命的な投影をしてしまう、ということは改めて肝に銘じます。ヴィトケンシュタインが記した「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」も、きっと一つの真理です。

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