『創世記』。世界中の人々にとっての「始まりの物語」~簡単なあらすじと共に~



こんにちは。

紀元前文学、第22回目は『創世記』です。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の聖典である旧約聖書の一篇を成し、世界の始まりについて物語っています。
その中でも特に重要視されるモーセ五書(出エジプト記含)の一篇であり、イスラエル人にとっての民族創世のアイデンティティを成す重要な書物でもあります。

成立年代については紀元前1000年頃から500年頃にかけてゆっくりと編纂されたと考えられています。

本記事では、『創世記』の簡単なあらすじと魅力について語ります。

『創世記』のあらすじ 旧約聖書の始まりとして

創世記は、神による祝福と約束の物語です。
その内容はざっくり分けると下記のように分類できます。

  1. 神による世界の創造
  2. アダムとイブの楽園からの追放
  3. ノアの洪水伝説
  4. バベルの塔
  5. 族長たちの困難と繁栄の物語

どこかで耳にしたことがあるようなワードがあるかと思います。
なお、最後の5が大部分を占めています。その一方、4.バベルの塔は一章となっており非常に短いです。
そして、随所に親族間での不和や子孫たちへの系譜などが挿入されています。

では、上記のリストに沿って見ていきましょう。

1.神による世界の創造

何もなかった世界に、神は光や闇、大空や海、生き物や人間を7日間かけて作りました。

2.アダムとイブの楽園からの追放

果物が揃うエデンに、神は土くれから作った人間のアダムを住まわせます。
神はどんな果実を食べても構わないが知恵の果実だけは食べてはならないと伝えます。

また、アダムが一人でいるのは良くないと考えた神は、土から様々な生き物を創り出しました。
最後にアダムのあばら骨から人間の女であるイブを作りました。

ある日、イブは狡猾なヘビに騙され、知恵の果実を食べてしまいます。
そして、アダムも食べてしまいます。


知恵が身に付いた彼等は裸でいることが恥ずかしくなり、イチジクの葉で前掛をつくります。
そのせいで知恵の実を食べたことが神にばれてしまい、二人は楽園を追放されてしまいます。

3.ノアの洪水伝説

地上に増えた人々は、悪しき存在へとなっていきました。
神は悲しみ、洪水を引き起こして地上から全ての生命を滅ぼすことを決めました。


ただし、正しい行いをしていたノアとその家族、全ての生命の雌雄だけは残そうとしました。神は箱舟を作ることをノアに命じました。

四十四日間雨が降り、洪水が大地を覆いました。
水は徐々に減り始め、ノアは大地が顔を出したか確認するためカラスを放ちました。
一度目はそのまま帰ってきて、二度目はオリーブの枝を咥えて帰ってきて、三度目は帰ってきませんでした。

ノア達は地上に出て、セム、ハム、ヤペテという息子を通して多くの部族を大地に送り込んだのでした。

4.バベルの塔

当時はまだ世界中の人々が同じ言葉を使っていました。人々は神の住まう天まで届く塔を建てようとします。

しかし、分をわきまえない人間に怒った神は、人間の言葉をバラバラにして、また世界各地に散らばって住まわせました。

5.族長たちの困難と繁栄の物語

アブラハム編

まずはセムの子孫アブラムが話の中心になります。

アブラムは神の言葉に従い、旅に出ます。
ロトや妻のサライと共に旅に出ますがカナンにいるときに飢饉が起きて、豊かな穀物があるエジプトへと向かいます。


そこでエジプトのファラオをだまし、家畜や奴隷など多くの財を手にします。途中、ロトとは別れ、ソドム人の王からも多くの財を受け取ります。

また、神との契約と祝福によりアブラムはアブラハムと改名し、多くの民の父となることになります。
そして、アブラハムとサラの間にイサクが生まれます。


イサクは神の意志によりナホルの町のリベカと結婚します。

イサク編

アブラハムの死後、イサクは全ての財産を譲り受けました。
イサクとリベカは双子を生み、エサウとヤコブと名付けられられました。


飢饉が起きたため、イサクはペリシテ人の王のもとに身を寄せていました。神に祝福されていたイサクは多くの作物を収穫しました。
しかし、イサクは豊かになりすぎたため、追い出されてしまいます。
そこで彼等はゲラルの谷間に住みました。

やがてイサクは年を取り、目があまり見えなくなりました。
イサクは長男であるエサウに祝福を授けようとしますが、ヤコブと彼の母の策略により祝福はヤコブにされました。

ヤコブ編

ヤコブもまた旅に出て、親族のところに身を寄せます。
そして、そこで妻を得るために七年間働きました。さらにもう一人の妻を得るために七年間働きました。


二人の妻は不仲でしたが、ヤコブが深く愛したほうの妻ラケルがヨセフを生みました。
その後、妻の親族から多くの家畜や奴隷を譲り受け、独立しました。

ヤコブは神からイスラエルという別名を与えられます。
また、イスラエルはヨセフを含め、後の十二支族の始祖となる子供たちを成しました。

ヨセフ編

ヨセフは兄弟の中で父イスラエルに最も愛されていたため、他の兄弟から嫌われていました。

ある日ヨセフは兄弟たちに騙され、隊商に売られてしまいます。
そして、ヨセフの侍従長の家に買われ、そこで働きます。ヨセフには神の祝福があるのでなんでも上手くいきました。


ある日、ヨセフは主人の妻に性的な関係を迫られてしまいます。
誠実なヨセフはそれを断りました。しかし、逆上をされてしまい、主人の妻に乱暴をしようとしたように見せかけられてしまいます。

ヨセフは地下牢につながれてしまいます。
しかし、ヨセフは特技の夢解きによって、大飢饉を予見しました。その結果、ファラオを予防策を取ることができました。
ヨセフはファラオの代理として、多くの政務をこなす地位を手にします。


ある時、ヨセフの兄弟たちが穀物を求めにエジプトにやってきます。
兄弟はヨセフに謁見をしますが、その正体に気づきません。
兄弟とのやりとりの間中、ヨセフはその場を離れてはたびたび涙を流しました。

その後、イスラエル達はエジプトにやってきて、豊かに暮らしました。
また、彼等の遺体はミイラにされました。

『創世記』の魅力 アイデンティティ・ヒストリー・ヒューマニティ ~あらすじだけでは見えないディープさ~

現代世界の価値観の根底にあるもの

旧約聖書はユダヤ教、キリスト教、イスラム教が聖典としています。
つまり、世界の人口の大多数にとって『創世記』は<始まりの物語>なのです。


その世界観に触れるだけでも、非常に深い意義があるはずです。
特に旧約聖書は神との契約と祝福により困難を乗り越え、豊かな未来を勝ち取っていく展開が連続します。前進と勝利の歴史とも言えるかもしれません。

その聖書的価値観を所有していない、仏教国である我々との対比にも意義があるように思います。 (例えば、ブッダの生涯を描いた仏教の経典ブッダチャリタなど)

また、『創世記』は欧米人のアイデンティティの根底にあるため、およそ200年の熱心な研究が積み上げられています。
余力がある人はそちらを見てみると楽しいかもしれません。

歴史資料としての創世記

正しい歴史?

当然ですが、創世記の内容はそのまま「正しい」歴史ではありません。
長い間口承で伝えられ、さらにはおよそ500年かけて記されたのです。
「真実」である部分のほうが少ないのは明確です。

例えば、ヨセフはエジプトで宰相のような地位に尽きます。
エジプト人の女性から好意を寄せられ、妻をめとります。
ただ、ヨセフたちの時代とされる紀元前15世紀のエジプトは大国でした。
文字も持たない小国の民が重んじられる可能性は極めて低いでしょう。

旧約聖書の記述内容には「自分たちは偉大な過去を持っている」という自尊心が感じられます。
『創世記』が書面として現在の形で成立した頃、ユダヤの民はペルシャの支配下にありました。

そこにも、きっと深い関係性はあるでしょう。

正しい面もあり

ただし、その全てが誤りというわけではありません。

また、ヨセフたちの紀元前1500世紀頃、ユダヤの民は天幕で暮らすような牧畜民であり、『創世記』にもその暮らしぶりは正しく反映されています。
都市で暮らす生活をしていた紀元前500年頃のユダヤの民は、1000年ほど前の事実を正しく認識していました。


『創世記』には幾ばくかの真実の核は含まれているのでしょう。

ちなみにヨセフたちがミイラにされたという記述がありますが、これは紀元前1500年においても(というか紀元前3000年よりも前から)、紀元前500年においても変わらぬエジプトの伝統です。過去の真実を伝えているかは判別できません。

読み物としての面白さ:分かり合える部分と分かり合えない部分の識別

創世記は遥か昔の遥か異文化の聖典です。
物語としてみた場合、その全てが面白いとは言い切れません。


しかし、だからこそ時折顔を見せる人間らしさにはハッとさせられます。
兄と弟の不仲などは現代に生きる我々でも共感できる部分があるはずです。
また、数十年ぶりに兄弟と顔を合わせたヨセフが涙を流す場面などは、胸に迫るものがあります。

「それ分かるなあ」という部分と「分からない、というか怖い」という部分がどちらもあるのです。

分かりあえる部分と分かり合えない部分。
その差異を識別することは、よりよく生きるためには必要なことだと思います。

結びに代えて あらすじでは見えない『創世記』の面白さ

『創世記』を読むと、いつも「読んで良かったな」と思います。
面白い古代の文学は多々あります。
その中で『創世記』が独特であるのは、我々日本に暮らす人々にとって世界の大部分の「他者」にとって重要な書物だからです。

一冊読んだくらいでは何も分かりませんが、「世界の見方、自分達はだいぶ違うな」と感じることがあります。

違うということ。
それを認識をすることがコミュニケーションでは何よりも重要であるということ。

そんな当たり前の事実に、気づかせてくれます。



それでは。

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