聖書時代史 新約篇/佐藤研 ~聖書を通して覗き見る、イエスが残した波紋の道行き~

こんにちは。

『聖書時代史 新約篇』はイエス生誕から新約聖書の成立に至る紀元1世紀から2世紀にかけての歴史を叙述した書籍です。

  • イエス生誕の地であるユダヤの歴史
  • ユダヤの民に多大な影響を及ぼしたローマ帝国の歴史

を横目に俯瞰しながら、そのせめぎ合いの中で少しずつ育まれていった初期キリスト教の変遷を描いています。

聖書時代史 旧約篇と対を成していますが、取り扱う時代・勢力がコンパクトなので読みやすくなっています。

個人的に興味深いと思った点を中心に内容をまとめてみました。

『聖書時代史 新約篇』の概要

第一章 ナザレのイエスの生と死(紀元前30年頃~紀元後30年頃)

ローマ帝国の歴史

紀元前31年のアクティウムの海戦でアントニウスとエジプト女王クレオパトラを打倒した後、ローマ帝国はオクタウィアヌスの下で平和を享受していました。

当時のローマ市民の4割が奴隷であり、残る6割の3分の1から2分の1は食糧の無料配給に頼る無産階級だったそうです。帝国は、食糧だけでなく剣闘などの娯楽も市民に提供していました。

そして、そんな消費を支えていたのはユダヤのような属州でした。

ただ、ティベリウスがウクタウィアヌスの地位を継ぐあたりから、パルティア帝国との戦いや各地での反乱など緊張状態が続くようになります。

また、王宮内でも王妃らによる権力争いが起こっており、嫌気がさしたティベリウスは隠棲してしまいます。

ユダヤの歴史

・ヘロデ大王

ローマの支配下にあって、その権威で利用する形で勢力を強めていたのが後に「大王」と呼ばれるヘロデです。

ヘロデはローマの有力者に取り入ることでユダヤでの地位を高めていき、支配領域を広めていきました。

その一方、ローマに歩み寄る姿勢はユダヤ人から嫌われることになります。
また、ヘロデは周囲の人々の箴言に心を乱され親族を暗殺するようになりました。

彼の死後、3人の息子に領地は分割されます。
その中の一人フィリッポスが洗礼者ヨハネの首を請うたサロメと結婚しているのも面白い点かもしれません。

・ローマ総督ピラトゥス

ローマからやってきた総督としてはピラトゥスが有名でしょう。
神殿にローマ軍旗を持ち込んだり、水道設備の工事費用を神殿の宝庫から使用としたり、その抗議に集まった市民をこん棒で殴らせたりと横暴の限りを尽くしていました。

・エルサレム神殿が持つ自治機能

また、ローマ支配下にあって、エルサレム神殿はユダヤ人のための自治機能を果たしていました。

エルサレム神殿はバビロン捕囚から帰還したユダヤ人に再建され、全世界の成人したユダヤ人男性から神殿税を取り立てていました。また、年に三度の巡礼祭では多大な布施・賽銭が認められていました。

エルサレム神殿は経済的に大きな力を持っていたと言えるでしょう。

キリスト教の歴史:イエスの誕生

・イエスの誕生と洗礼者ヨハネの邂逅

ガリラヤで大工の長男として生まれたイエスは、おそらく若いころから働いていたと思われます。大工としてガリラヤ各地を渡り歩くなかで、民衆の苦悩を感じ取っていたかもしれません。

洗礼者ヨハネの存在を耳にしたイエスは家族を捨て、彼の洗礼を受けるために旅立ちます。
ヨハネの洗礼はヨルダン川の流水に身を浸すという誰にでもできる行いで、来るべき終末からの救いをもたらす者でした。


そして、その簡単で誰にでも開かれた救いは、神殿祭儀は神殿に赴かなければならないとするエルサレム神殿に対する敵対的な行為でもありました。
ヨハネはやがて為政者に目を付けられ、ガリラヤの為政者ヘロデ・アンティパスに処刑されます。

・イエスの転機

それがイエスにとって大きな転機となったようです。
荒野に人で集めたヨハネと違い、イエスは町に赴きます。

イエスは洗礼も行いませんでした。ヨハネが説いていた終末がすでに始まっていたと考えていたそうです。

・受容されるイエスの教え

イエスは自分たちは不義に塗れた人間の王国ではない、神の王国へと「到来した」というメッセージを掲げてガリラヤへと帰還します。
イエスの大胆な主張はガリラヤの多数を占める貧民層・没落層から大きな支持を集めました。

とりわけ注目に値するのは、イエスには「病を癒す」力があるとされていたことです。
「悪霊に憑かれた者」を代表とする精神神経的疾患(これ自体、社会的抑圧機構の犠牲者僧に頻発する)や、当時の社会で最も忌み嫌われた「レブロス」(日本でのハンセン病者の宿命に相当する)が癒されたと報告されています。


そして、こうした症例におかされるということが当時のユダヤ社会ではこうした重症に侵されることは本人ないし家族の「罪」が原因とされていたことです。

イエスがこれらの人々に近づき、彼等を無条件に受容したということは、「罪」として差別と排除を合理化して固定化しようとしていた社会体制への批判として作用しました。

また、「罪」の赦しがエルサレム神殿ではなくイエスを通して与えられることも意味し、強烈なセンセーションを巻き起こすことになりました。

・イエスの死

しかし、政治的・宗教的な支配者たちはイエスを敵対視することになります。イエスがエルサレムへと入り、神殿を否定するような示威行動を行います。

そして、ついには捕縛され、十字架刑という反ローマ逆賊用の最も忌まわしい処刑方法によって殺されることになりました。

第二章 ユダヤ教イエス派を取り巻く世界(紀元後30年頃~45年頃)

ローマ帝国の歴史

・ティベリウスの治世

ティベリウスが隠棲した後、近衛司令官セイアヌスが政権を掌握していましたが、時期を見計らっていたティベリウスに暗殺されます。

人間不信に陥ってたティベリウスの政治は恐怖政治そのもので裁判と処刑が絶え間なく繰り返されており、彼が亡くなった時には誰もが安堵したそうです。

・ガイウス(カリギュラ)の治世

その後を継いだのは、「カリギュラ」の名でも知られるガイウスです。

ガイウスはティベリウスの暗い治世を払しょくするような、穀物の無償配布や政治犯の釈放等、人生を掌握するような施策を施します。

しかし、即位して七か月後に重症にかかり、いったんは回復したものの、その後は先天的な精神異常が顕在化してしまいます。
戦争の栄光を求めてゲルマニアを攻めるも功績を挙げられず、自分が現人神であるという妄想に取りつかれ、自身への礼拝を要求していました。

そして、エルサレムに自身の像を立てる要求などをしているうちに暗殺をされていしまいます。

その後、帝位を継いだクラウディウスは穀物分配や郵便制度などを整備し、南イングランドやリキアなどを属州にするなど積極的に遠征をしていました。

ユダヤの歴史

ローマに認められたユダヤの支配者ヘロデ・アグリッパは、幼少のころにローマに送られており、ティベリウスの息子とも親しい間柄でした。

さらに後に皇帝となる「カリギュラ」とも親しく、ローマ属州となっていた地域を与えられていきます。
後のクラウディウスからも土地を与えられ、一時的にユダヤは属州支配から脱するに至ります。

ヘデロ・アグリッパはローマの有力者との関係をバックボーンに力を強めていきましたが、彼が亡くなるとユダヤは再びローマの属州になってしまいます。

総督としてやってきたファドゥスはユダヤ人の反乱を厳しく処するなどしており、不穏な空気がユダヤには満ちるようになったようです。

キリスト教の歴史:ユダヤ教キリスト派の誕生

・多様なユダヤ教イエス派

イエスが処刑された数日後、信徒たちはイエスが「生きている」という不思議な「復活」体験を共有します。
そして、これが呼び水となって12人の担い手たちによるエルサレム原始教会が立ち上がります。


また、時が経つにつれ、ディアスポラ出身でギリシア語を話す「ヘレニスタイ」による急進的なグループも頭角を現すようになりました。

そして、「ヘレニスタイ」によってアンティオキアで成立したアンティオキア教会の周辺で、キリストを奉じる者たちは「クリスティアノイ」と呼ばれるようになります。「キリストを担ぎまわる者たち」という揶揄の意味が込められていたそうですが、これが後の「クリスチャン」の語源になります。

また、エルサレム原始教会やアンティオキア教会以外にも、現代ではQ伝承集団や前マルコ伝承集団と呼ばれる様々な勢力が存在し、ユダヤ教イエス派は各地で徐々に根を張っていきました。

・イエスとユダヤ教イエス派の間に存在する、関心の差異

ユダヤ教イエス派の教義の多様性が見られ、「イエスに今なお有効な威力を帰し、彼らの命運を決する意義を認める」という点においては共通点が見られますが、教義的な統一がなされていたわけではありません。

つまり、彼等がイエスの真意をとれほど継いでいるものかの真意は定かではありません。
それにイエスの中にあった社会的関与への志向と実現するエネルギーは、ユダヤ教イエス派には引き継がれなかったようです。


とりわけエルサレム原始教会の人々には、十字架刑に処されるイエスを裏切って逃げたという負い目がありました。
彼等の動機にはイエスの教えを忠実に繋ぐというよりもイエスに対する「喪」であり、イエス自身の関心や動機とは異なる関心や動機に基づいて布教を行っていたようです。

イエスが神格化されていく嚆矢は、彼の死後すぐに現れていたようです。

第三章 パウロの伝道活動とパレスチナ・ユダヤ教の滅び(紀元後45年頃~70年頃)

ローマ帝国の歴史

クラウディウスの妻アグリッピナは夫を毒殺されたあと、自らの子ネロを十七歳で皇位につけます。

しかし、ネロは恋人にそそのかされてアグリッピナを暗殺し、その後も自分に都合が悪い人物を追放・暗殺を繰り返します。暴君ネロの名にふさわしい暴虐に限りを尽くしていました。

ローマンの大火が起こると、人々はネロの放火ではないかと噂をします。
ネロはこの噂をもみ消すため、ローマのキリスト教徒たちをスケープゴートにしてなぶり殺しにしていきます。


民心は失われ、ネロは居場所を失い、逃げ出したところを追いかけられ、自らの喉に刃を突き刺すことになりました。

その後、行為をめぐる内乱のあと、ウェスパシアヌスが帝位を継ぎます。

ユダヤの歴史

ローマ側の横暴もあり、ユダヤ人の間で徐々に反ローマ運動が激化していきます。

そして、神への「熱心」(具体的には律法、十戒の中でも特に「汝には我のほか神なし」)を命がけで守ろうとする熱心党が頭角を現すようになります。
彼等は異邦人による支配は妥協なく排除されるべきと考えており、そのためには武力を行使することも正当化されていました。

また、自らをメシアと称する「予言者」も多発し、彼等もまたローマから弾圧されていました。

フロルスがローマ総督として着任すると私腹を肥やす彼に対して、エルサレムで暴動が勃発して戦争へと発展していきます。

ユダヤ側は一時的にエルサレムを奪還するに至りますが、内輪もめを繰り返していくうちにローマ本国から送られた部隊に敗北してしまいました。

そして、ローマ軍による虐殺の限りが行われることになりました。

キリスト教の歴史:ユダヤ教キリスト派の展開

・ユダヤ教イエス派同士の対立

アンティオキア教会のパウロたちはトルコ周辺部のローマ・植民都市に対して積極的に布教活動を行います。

しかし、これに対してイスラエルに座を持つユダヤ人イエス派たちが異議を唱えます。ユダヤ教は本来ユダヤ人の宗教であり、異民族に門戸を開くべきではないというのです。

両者の有力者が集って会議をすることになります。有名なエルサレム使徒会議です。

その結果、アンティオキア側は異邦人には割礼を除外して――つまりユダヤ教に改宗させることなくして――イエス派の救いを宣べ伝えてよいとする同意をエルサレム側から引き出します。

そして、両者の連帯の証として、異邦人側がユダヤ人側に対して献金を行うことも決定しています。

・パウロの死とエルサレム原始教会の衰退

しかし、両者の間では緊張感もあったようで、食事の席で両者が食卓を共にすることを拒絶するような衝突も起きています。
その収め方に異議を唱えたパウロはアンティオキア側からも別行動をとり、幾度となく小アジア・ギリシャ方面へと宣教をしていきます。

獄中生活をするなどのトラブルに見舞われつつも、アジア・ギリシャから集めたパウロは約束の献金をエルサレム教会へと持参します。しかし、エルサレム原始教会はどうやらそれを受け取らなかったようです。

パウロはさらにエルサレムで暗殺されかけ、そのままローマ送りとなります。そして、二年の軟禁生活のうえ斬首刑に処されました。

一方、ユダヤがローマに対する戦争に傾くなかで非武装を貫いたエルサレム原始教会は徐々に反感を集めるようになりました。そして、北部トランス・ヨルダンへと都落ちをするようになります。

その結果、エルサレム原始教会は歴史の表舞台から姿を消すことになります。

第四章 「キリスト教」の成立(紀元後70年頃~100年頃)

ローマ帝国の歴史

ウェスパシアヌスの死後、ティトゥスによる2年の治世の後、ドミティアヌスがストア派の哲学者を追放したり、自らを神と称するように強制するなど暴政を敷くようになります。

ドミティアヌスは最終的に妻に暗殺され、元老院は彼の碑銘を削除し、その名に呪いをかけて彼に関する一切の記録を抹殺するように決議しました。

その後、ローマ帝国はいわゆる五賢帝の時代に突入し、最盛期を迎えることになります。皇帝と元老院は強調し、都市は繁栄し、対外的にも安定した支配・拡張政策を実施していきます。

ユダヤの歴史

・ユダヤ社会の状況

ローマは厳しい租税をユダヤに課し、パレスティナ駐屯部隊及び行政官吏を支えるために新しく「作物税」を設けています。

ユダヤ人は、ダビデの末裔とされるヒレル系のラバン・ガマリエル二世がユダヤ人共同体の最高検移植につき、律法研究に精魂を傾けるようになります。
彼等はイスラエル復興の最後的な希望の徴となったようです。

社会の広範囲から集められたラビたちが新体制の中核を担うようになりました。ディアスポラへの使節派遣も再開され、パレスチナとの結束も緊密化されました。

・キリスト教との差異化

また、キリスト教との分離が明確化されたことも重要でしょう。
1世紀の終わりごろにユダヤ教礼拝の基本をなす「十八祈祷文」が確定されましたが、同時にそこに主にユダヤ人キリスト教徒を念頭に置いた異端者への滅亡を祈願する呪詛「ビルカト・ハ・ミーニーム」が挿入されるようになりました。

一節だけ引用します。

「ナゾラ人たち(キリスト教徒)とミーニーム(異端者)は一瞬にして滅び、生命の書から消されて、義しい人びとと共に書き入れられないように」

なかなか強烈な呪いの言葉ではないでしょうか。

そして、もっと重要なのはキリスト教側で旧約聖書の正典結集が行われたことでしょう。
キリスト教会が「七十人訳」と呼ばれるギリシャ語訳を用いてユダヤ教との論争を遂行していたため、ユダヤ教側でも正規の教典の確定が急がれるようになりました。

キリスト教の歴史:「キリスト教」成立への苦闘

・「キリスト教」としてのアイデンティティを確立するための福音書

この時期、各地に散らばるイエス派の人々はユダヤ教から自らを切り離すアイデンティティを必要としていました。
そして、福音書(この名称自体はもっと後の世のものですが)をはじめとした様々な教典が成立していきます。


周囲から迫害されている信徒に勇気を奮い立たせるために書かれたマルコ福音書、
異邦人出身の作者によるユダヤ民族との決別をテーマにしたマタイ福音書、
「イエスの時」を自らが所有する歴史として自己のアイデンティティを創出つつもローマやその権力に対して自分たちが無害であることを弁証するルカ文書、
キリスト教内のグノーシス主義との戦いを念頭に置いているパウロ圏の文書、

等々があります。

・転換するパウロ

また、アイディンティティ創出のために文書編纂が行われた時期に、ギリシャ・ローマを宣教して回ったパウロの存在感が一気に強まっていきます。

ユダヤ教から独立したアイデンティティを確立しようとしていたキリスト教にとって、かつてパウロが提示した律法を超越した――割礼を必要としない――救いの教説が非常に意義深いものになりました。

ユダヤ人にならず(割礼をせず)、それでもユダヤ伝統の救いを確証するとパウロの理論が、キリスト教としての正当性を裏付けるにふさわしいものだったのでしょう。

しかし、パウロ自身は自分をユダヤ教徒から切り離そうとはしていませんでした。だからこそ、ユダヤ人たちと和解するために献金を行おうとしていたのです。そして、その和解に失敗し、命を落としています。

本人と意図せぬ形で評価され、その結果後の世まで名前と栄誉を残すことになったのは、何とも皮肉なことのように思います。

第五章 キリスト教の伝播・迫害・内部抗争(100年頃~200年頃)

ローマ帝国の歴史

ローマ帝国は引き続き、五賢帝による栄華を享受していました。対外的な拡張も続き、帝国の領土は史上最大にまで達します。

しかし、拡大を続けた理由は、イタリアの農場経営方法にありました。
奴隷を使った大規模農園には舞踏やオリーブを生産するためには奴隷を供給する必要があります。

さらに従来は奴隷の供給源であったガリア、スペイン、アフリカでもイタリ
アと同様の作物が創られるようになり、徐々に作物の供給先も減っていきます。

戦争が止まれば、奴隷は供給されなく、農場経営が立ち行かなくなります。
だからこそ、戦争を続けざるを得ないという側面もありました。

しかし、戦争にかかる莫大な財戦負担に徐々にローマは耐えられなくなりつつありました。


その後、防御策に転じるようになりましたが、マルクス・アウレリウスの時代になると様々な戦争や危機が巻き起こります。
愚帝とも呼ばれるコンモドゥスが帝位につき、徐々に帝国は衰退していくことになりました。

ユダヤの歴史

ユダヤ教はローマの支配に対して一度ならず反乱を企てていました。特にパレスチナのユダヤ人が起こした第二次ユダヤ戦争では、パレスチナは徹底的に破壊されることになります。

その後、ローマの支配に振り回されながらも、ユダヤ教徒たちは宗教に対する研鑽を積んでいきます。

旧約聖書をギリシャ語に翻訳したり、聖書に次ぐ権威を持つとされるミシュナを編纂するなど、重要な成果物を世に残しています。

キリスト教の歴史:内外の戦いを抱えるキリスト教

この時期のキリスト教は外部と内部の敵との戦いに対応せざるを得なければなりませんでした。

・外部の敵:ローマ帝国からの迫害

外部とは、つまりローマ帝国からの迫害です。

この時期、キリスト教の伝播は帝国西部では都市部に限定されていたのに対し、東部では速やかであったようです。

また、皇帝はキリスト教徒であることが証明されれば処刑・処罰され、棄教すれば許されるという方針を打ち出しています。

一方、一般の市民たちにとっては、キリスト教徒は度重なる戦争や疫病でたまったストレスをぶつけるスケープゴートのような存在であったようです。

それでも、キリスト教の伝播はとどまることなく、2世紀の末にはローマ帝国のほぼ全域に宣教が行き届くことになりました。

・内部の敵:キリスト教的グノーシス主義


キリスト教的グノーシス主義と「正統派」との争いも熾烈を極めました。

グノーシスとは1世紀にユダヤ・サマリア、シリア、エジプトなどのユダヤ教外辺部で成立した宗教思想であり、

  1. 人間の本来的自己と思考者が本質的に同一という認識(グノーシス)を救済原理とする
  2. 身体、世界、宇宙の創造者(デミウルゴス)の一切を、非本来的な悪とみなす宇宙的二元論を標ぼうする
  3. このようなあり方と救済認識の成立とを表現する神話を持つ

ことを特徴としており、本来キリスト教と無関係に成立したものですが、キリスト教に強い影響力を振るうようになりました。

例として、イエスは霊的存在であり単に外なる「現れ」として一時的に肉体ある人間の姿を取ったに過ぎない、したがって彼は本来受難することもありえず死を遂げることもなかったと主張する「仮現論」があります。

グノーシス主義者は自らをキリスト教徒、しかもいわゆる「正統派」たちに対して優越意識を持ち、それ以外のキリスト教徒に同情的連帯意識を持っていました。

グノーシス主義者の思想は正統派とは異なっており、トマス福音書の「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすれば、あなた方は私をそこに見出すだろう」などは東洋思想との類似を感じさせます。

一方、「正統派」たちは彼等を同志と認めず、敵対意識を露わにし、排除を目論見ます。

  • 全能の神への信仰を詠う信仰告白の制定(グノーシス派は信仰ではなく、神を超える至高者の認識にある)、
  • 自由奔放に生み出されるグノーシス派の文書を排除するために正典を結集、
  • 神に連なる監督の権威を生み出すための聖職位階制の制定(これにより男性優位化が進む)、


等々の要素はその後「正統派」がローマ・カトリックの礎となり、我々が知る「キリスト教」の姿に大きな影響を及ぼすことになります。

『聖書時代史 新約篇』の個人的な感想

2000年間、変わらぬ社会

最も印象に残っているのは、紀元後1世紀におけるユダヤでの差別の在り方です。

「悪霊に憑かれた者」を代表とする精神神経的疾患(これ自体、社会的抑圧機構の犠牲者僧に頻発する)や、当時の社会で最も忌み嫌われた「レブロス」(日本でのハンセン病者の宿命に相当する)は被差別階級とされていました。

その根拠は?

本人ないし家族の「罪」が原因とされていたからです。

非常に理不尽だと感じます。そして、その理不尽を異を唱えようにも「罪があるお前が悪い」の一言で周りは済ましていたことでしょう。

ただ、「罪」を「人種」「性別」「貧富」「身体的特徴」「能力」などに置き換えれば、現代にもありふれているように思います。

適当なレッテルを張り、そういった人々の現状を正当化する。


そう考えれば、差別をされる側に寄り添ったイエスが支持を集めた理由がよく分かります。
そして、差別する側から嫌われた理由もよくもまた、よく分かります。

あいつには「罪がある」。だから、あの状況は仕方がない。
言われた側の気持ちを想像すれば、どれほど惨いことかが分かります。

つまり、「罪がある」の部分に現代的なワードを当てはめると、我々の周りに当然のように蔓延している言説になるというわけです。
そして、我々のほとんどは差別される側であると同時に差別する側であることにも気づきます。


おそらく現代日本にイエスのような(おそらく異様な一面も備えていたであろう)カリスマが現れても、大部分はユダヤ人のように彼とその信徒を迫害するように感じます。

なぜなら、我々のほとんどは差別と排除を合理化して固定化しようとしていた社会体制に組み込まれ、その差別と排除に怒りを覚えながらその怒りを、悪夢のような社会体制にのっとって差別的に吐き出しているからです。

カリスマの思想とその変遷:人類の行く先

また、それほどに崇高な教えが数百年と経たないうちに差別を助長する社会機構に変わっている点も印象的です。

仏教などもその最たる例ですが偉大なカリスマによる核心を突いた思想が、時代を経るにつれて凡庸なモノに成り下がってしまうというのは、人類において普遍的な現象であるように思います。

イエスの時代と比べて、今の我々はとても豊かになり、倫理観も大きく発展しました。
しかし、それは表層的なもので、根本の部分では2000年前から何も変わっていないのかもしれません。


人類の進歩は想像を絶するほど遅々としていますが、それでも前に進んでいる。
そう信じたいものです。

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