夜明けの王女

 夫のツタンカーメンが死んだのはクッソ暑い洪水の季節だったけど、まあ結構前から手足の壊死が進行してたし、体中から鼻が曲がりそうな異臭を放ってたし、もうどんな顔してお見舞いに行きゃ良いのか分かんないし、かと思えばぽっくり逝った後はミイラ職人の手配とか副葬品の調達みたいな雑用でウンザリするほど忙しくなるし、そのあとはウンザリするほど長ったらしいお葬式に参加させられて、それが終わってやっと一息つけると思ったら五十歳も年上のジジイと無理矢理再婚させられる。もう怒り心頭。心の休まる瞬間なんてこれっぽっちもありゃしない。
 ……あれ。
 ひょっとして、私あいつのために泣いてあげたこと一度もなくない?
 すまんのう、偉大なるエジプトの主、ファラオ・ツタンカーメン。っていうか、カー君。汝の妻アンセケナーメンは冷たい女なのだよ。まあ、カー君が一番知ってるか。はは。
 夜の心地よい風が、私の頬をそっと撫でていく。
 私は後宮の外壁に背中を預け、地べたに坐ってる。目の前にはあるのは、夜のナイル川。今夜の月は弓みたいに細くて、辺りは真っ暗だ。水の気配はするけど、川面はよく見えない。
 岸では衛兵たちが見張りをしてて、足音が遠く聞こえる。でも、もっと近くからも足音が聞こえる。しかも、足早に近づいてくる。
 私はこの足音が大好き。大好きな人の足音だから。
「探しましたよ、アンセケナーメン様」
 ティネトが呆れた様子で私を見下ろしていた。ティネトは後宮の女中長、つまり私のお世話をする人だ。年齢は私と十歳も違わないけどしっかりしてる。あとはそうだな、綺麗で、細くて、背が高くて、ちょっと融通が利かない。
「突然いなくなられたので心配いたしました。プタハ神殿の神託にて受ける時間が迫っております。御仕度を」
「……んー」
「んー、ではありません」
「今日は気が乗らないんだよねー」
「馬鹿なことを仰るのはおやめください」
「いや馬鹿はひどくない? 私偉い人なんだけど、一応」
「では、ご身分に相応しい威厳を示すためにもお立ち上がりくださいませ。……まったく。砂漠の砂でせっかくのお召し物が汚れてしまいます」
「ねー。この白亜麻のドレス可愛いよね!? 蒼い襟飾りも綺麗だし」
「……アンセケ、ナーメン、様?」
 あ、あれ。冗談のつもりだったんだけど、ティネトのこめかみは怒りでピクピクしてる。
「なぜか記憶喪失になられているようですが、アンセケナーメン様は今やファラオであられます。神の化身として、現人神としての自覚を持った振舞いをしてくださいませ」
 ティネトは威圧するかのように鋭い眼光を突き刺している。もう完全に上から目線の説教だ。一応ファラオでもある私にこんな態度を取れる人間はそうそういない。
「あ、あはは……やだなー、ティネト……。ちょっとした冗談だって……分かってる。ちゃんとしっかりやるから、たとえお飾りでも」
 残念。私の失言。気まずい沈黙が立ち込めてしまった。お飾りはなー……。説明しよう。簡単に言うと、私は傀儡なのだ。それも烙印を絶対一生変わらないような。私にもティネトにもどうすることができない現実だ。
 私は後ろを振り返る。後宮の離れがそこにあり、それは私の家でもある。明かり窓の向こうには、ファラオが代々受け継ぐ黄金の杓が飾られてる。私はあれと一緒だ。美しい装飾品であり、権力の象徴であり、実態は男どもが握っている。
 少しでも遠くを見たい気分になって、私は立ち上がる。ティネトはすかさず私の服に付いた砂を払ったあと、装身具が落ちたりずれたりしてないか確認してくれた。
「ツタンカーメン様は耐えていました、いつか夜明けがくると信じて」
「そうだね」
 カー君には来なかったけどね、夜明け。
 私とカー君は幼馴染であり、異母姉弟でもあり、許嫁でもあった。物心ついたときから、私達はずっと一緒だった。
 カー君は優しい男の子だった。たぶん、優しすぎるくらいに。それがあいつの良いところだったとは思うけど、私をイライラさせる弱さでもあった。
 政略結婚の夫婦をやる相手としては、何の不満もなかった。あいつと過ごした日々は楽しかった。その言葉に嘘偽りはない。だけど、カー君のことを愛していたかは今でも分からない。っていうか、愛してはなかったわ、ぶっちゃけ。
「……はあ」
 私はため息をついた。私がどんなに憂鬱に沈んでもナイル川は変わらず水を運び、ナツヤメシの木々は夜の影で風に揺れていた。
「ねえ、ティネト」
「なんでしょう」
「二人で一緒に逃げない?」
「……は?」
「二人で一緒に逃げない?」
「……あの……えっと……どこへ?」
「ティネトの実家」
 ティネトは正気を疑うような視線を私に向けた。ファラオの権威も形無し。別にどうでもいいけど。
「ご存じでしょうが私の実家はエジプト軍によって燃やされています。家族も皆奴隷になっているか、殺されているか。そんなところでしょう」
 ティネトはナイル川の上流に住むヌビア人の貴族だった。だけど、私のお父さんでもあった当時のファラオ・アクエンアテン王の侵攻により領地を奪われ、一族も散り散りになった。
 ティネトは家族からはぐれているところを捕まり、後宮務めの女中になった。
 それから、二十年近く経つ。
「でもさ、全員殺されたのを自分の目で見たわけじゃないんでしょ? お屋敷が全部燃えちゃったかどうかも確認したわけじゃないんでしょ?」
「それは、まあ、そうですが」
「だったら一回行ってみようよ! ヌビアまで」
「女性二人でヌビアまで行くのは現実的ではありませんし、王宮の許しが出るはずが絶対にありません」
 ティネトは生真面目に私の言葉を否定していく。冗談が通じないというか、心の遊びをもう少し分かってほしい。
「……い、いや、そりゃそうだけどさ」
 ただ、私は私なりにティネトのことを心配しているのだ。
「でもさ、このままじゃティネトだって一生私のお世話係だよ?」
 ティネトは王家の奴隷であり、所有物だ。おまけに生まれも育ちも異国で親族がいない。おまけに肌の色だって違う。私はティネトの肌がきれいで大好きだ。だけど、この国の男はティネトのことをひどい言葉で差別する。
 結婚も出来ず、誰にも愛されず、私と一緒に年老いていく未来しかない。
 それはイヤだ。私はそう思う。
「ティネトは、このままでいいの?」
「……アンセケナーメン様はお優しい方ですね。文字さえ持たぬ蛮族の女にもお心配りをしていただけるなんて」
 ティネトは、嬉しそうに目を細めた。
「今の境遇は私には過ぎたるものです。いつ殺されても、いつ誰かの慰み者になってもおかしくない身の上だった私に奇跡が起きて、こんなに可愛らしい王女様のお世話できるようになったのですから」
 ティネトの言葉に嘘はなさそうだった。私はそれが歯がゆい。もっともっと、ティネトには幸せになる権利があるはずなのに。信じられないほど長い時間を、私なんかに捧げてきたのだから。
「……私がどっかに逃げ出すときは、絶対にティネトを連れていくから!」
「……ええ、楽しみにしていましょう」
 淡い微笑みだ。ティネトは私の話を仮初の夢幻のように受け取ったのだろう。悪い気はしていないようだけど、真面目に取り合っている感じはしなかった。
 なんて素敵な未来に思いを馳せていると、嫌いな足音が近づいてきた。最悪の足音。世界で一番嫌いな足音。
「おお! 我が妻よ、ようやく見つけました」
 クッソジジイが杖を突いてよぼよぼ近づいてくる。ん? あいつ? あいつはアイだね。私とカー君の元後見人で、今は私とエジプトを共同統治するファラオであり、私の夫でもある。
「夜風に当たりすぎると身体が冷えますぞ?」
 アイがにたにた笑いながら近づいてくる。キモい。無視。だけど、アイは気にせずしゃべり続ける。
「ところでシリア産のワインを手に入れましてな、一緒にどうですかな? 私なぞは国産の瑞々しい味わいも好ましく思っておりますが、若い方にはシリア産の豊潤な味わいが一番でしょう。心地よく酔えますぞ?」
 まーたワインの話かよ。本当はワインなんてどうでもいいくせに。コブラみたいにまとわりつく性欲剥き出しの視線に、私は強い嫌悪感を覚える。
 ガマンしろ。私は自分に言い聞かせる。ガマンしろ。お前ももう大人なんだから。
 ガマン、ガマン、ガマン、無理。
「お前と心地よく酔うとか、反吐が出る」
 私が吐き捨てた。ティネトの表情が凍り付いた。アイの表情が怒りに歪んだ。
 だが、アイの顔はすぐに変わった。薄気味悪い笑顔に。舌なめずりをする猛獣のように、罠にかかった獲物に嬲り殺すようなほの喰らい笑顔に。
 怖い。自分の発言を後悔するくらい。
「確かに確かに、儂は若い娘の心を理解するには年を取り過ぎているかもしれませんなあ。ただ、心だけでは筋を通せませぬ。アンセケナーメン様のせいで多くの民が命を落としたこと、お忘れなきよう」
 今度は私が感情を一瞬で沸騰させる番だった。
「だから、その話はもう何回もしたでしょ! 謝ったでしょ」
「そうですなあ、仰る通りですなあ」
「じゃあ、もういいじゃん!?」
「責任の話が、まだ済んでおりませんなあ」
 また、その話かよ! しつこい。もう謝っただろ!? 他にできることなんてないだろ!? 何度もそう言い続けているのに、こいつはまだ同じ話をする。
 そして、その理由を私は知っている。
 私を責め立てるとき、アイの視線はいつも私の胸元にある。胸元にない時は、手足や首元、肌を一心に見つめている。しかもどんなに笑っていても目だけは笑っていない。干からびた大木の奥底でおぞましい大蛇が蜷局を巻いているような、一刻も早くその場を離れたくなる気持ち悪さがあった。
(クッソが……!)
 私の怒りが完全に爆発しそうになったとき、ティネトが助け舟をだしてくれた。
「アイ様、アンセケナーメン様は神託のお時間が迫っております」
 相手がお飾りではない真のファラオだとしても、ティネトは冷静かつ堂々としている。そして私はすぐに反省する。アイの気分一つでティネトは殺されてもおかしくない。アイを危険にさらすことをしてしまった。
 アイは数秒考えたあと、意味深に微笑した。
「ふむ。それはそれは。それでは仕方ありませんなあ。この辺で失礼いたしましょう」
 アイは杖を突き、その場を立ち去ろうとする。だが、すぐに足を止め、爬虫類めいた笑顔を浮かべ、アンセケナーメンを見据えた。
「しかし、アンセケナーメン様、責任のことはよく考えておいてくだされ。貴方もファラオです。これ以上先延ばしにするのも神の倫理に反するでしょう」
 そして、何事もなかったかのように、松明を掲げた兵士達と共に立ち去った。
 杖を突くよろめいた足音が少しずつ遠ざかっていく。
 私は両手を握りしめ、悔しさを堪えた。
「んだよ、もう……」
 また、良いように言い負かされてしまった。
 怖かった。手足が震え、凍り付いたように冷たい。
 ティネトがいたわるように肩をなでてくれて、少し涙が出そうになった。
 耐えたけど。
 あんなやつに、泣かされてたまるか。

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 カー君は九歳で即位した。
 誰だって分かると思うけど、エジプトみたいな大国を九歳児が統治できるわけがない。当然ありとあらゆる大人たちが私達を利用しようして、その中でも一番政争に長けていたアイだった。
 カー君と私はアイの言うとおりに振舞うしかなかった。私たちはそれこそ可愛らしいお人形のようにアイに支持されるがままに命令を下した。
 私達は王宮から出たことさえほとんどなかった。
「プタハ神よ、ヒッタイトに囚われし汝の民にどうかご加護を」
 今もアイに命令されるまま、私は神殿で呪文を唱えている。
 誰も見てないからサボるけど、座るけど。
 私のお父さんアクエンアテンがファラオだったときは、こういう儀式にも巫女がたくさんいたらしい。でも、今は私が一人でやってる。外に衛兵はいるけどね。アイは必要なところには費用や人材を割かない商人気質のファラオなのだ。そのせいか、ヒッタイトみたいな大国とも良い関係を気づいているらしい。ま、嘘だと思ってますけどね、私は。
 祝詞を唱えながら、私は神殿を見上げる。
(綺麗だな……)
 心の中でいつものようにつぶやく。
 未来永劫に残す必要がある神殿やピラミッドは私達の家とは違う花崗岩や石灰岩でできているんだけど、これが気品に満ちた色彩で美しいのだ。しかも、石像や壁画が盛りだくさん。うーん、荘厳。良いなあ。一個くらい持ち帰りたい。自分の部屋の干乾しレンガ造りの天井を見上げているといつも思う。一応ファラオなのに……。ただ、私達エジプト人の中には神に関わらない部分は質素にという価値観が根強く息づいているらしい。本物のファラオ様であらせられるアイだって干乾しレンガの部屋で寝てる。
 ん? 突然、神殿の外が騒がしくなってきた。厄介ごとかな。巻き込まれたくないし、早めに帰って寝よ。と思ってあくびをしたまま振り返ったら、
「久しぶりね、アンセケナーメン」
 びっくりした。すんげえ美女がいた。私はビビった。小柄だけど大物の存在感。あれ、この美女、初対面だと思うんだけど、なんかどっかで会ったことがあるような……。
 ん? この没薬(ミルラ)の匂いはひょっとして……!
「お姉ちゃん!?」
 そこにいたのは十五年前に失踪した私の姉、メリトアテンだった。

 私とカー君には沢山の兄弟姉妹がいたけど、最も優秀なのは間違いなくメリトアテンお姉ちゃんだった。アクエンアテン王に目をかけられて実務に携わるようになると瞬く間に宮廷の権力を掌握した。そして、お父さんであるアクエンアテン王が亡くなるとなんと自分の夫を暗殺し、その名を借りてファラオに君臨したのだ。さすがにアイもお姉ちゃんの前では大人しくするしかなかった。
 エジプトでも全体未聞の出世譚だろう。でも、正直に言って私はお姉ちゃんのことを誇りに思っていた。女はファラオになれないわけじゃないけど、なるのは大変だ。しかも、大半は私みたいな傀儡。だけど、お姉ちゃんは実権を握っていたのだ。しかし、一体何を思いついたのか、お姉ちゃんはその三年後に突然失踪してしまう。
 そして、突如生まれた空位を埋めるようにカー君が王位を継承した。
 つまり、お姉ちゃんの失踪はカー君と私の不幸の始まりなのだ。
 私は怒りの視線をぶつけながら、十二年ぶりにお姉ちゃんと向かい合う。
「っていうか衛兵をどうやってすり抜けてきたの?」
「ちょっとお小遣いを渡したら、お部屋に帰ってくれたわ。相変わらずここには貧乏人しかいないのね」
 お姉ちゃんは失望するような表情をこちらに向けている。つまらないことを聞くな。そう顔に書いてあった。
 巨大な神々の石像に囲まれて、私とお姉ちゃんは火花を散らす。
「今更何しに来たの?」
「決まってるでしょ。貴方を笑いに来たの」
 顔立ちが整いすぎてて、人を見下した表情が良く似合う。クッソむかつく。
「ケンカ売ってんのか?」
「貴方、ヒッタイトの王にお手紙を送ったんだって?」
 お姉ちゃんがさらっと言った言葉に私は衝撃を受けた。何故ならそれは国家機密だったから。そして、私としては人に知られたくない恥ずかしい過去だから。
「そ、それは――」
「『アイと結婚したくありません。おたくの王子様をお婿にください』ってお願いしたんでしょ? この世界で唯一我がエジプトと双璧を成すほどの大帝国ヒッタイトに」
「な、何でそれを!?」
「ヒッタイトの王子を婿にすれば、エジプトのファラオはヒッタイトの王子になるわ。そうなればエジプトはヒッタイトの属国になるのよ? 貴方、国を売る気だったの?」
 お姉ちゃんは私の言葉を無視して、私の愚かさを責め立てる。恥ずかしいことをしたと思っている。人に知られたくない。でも、私にはそんな恥ずかしいことをしなくてはならないだけの確固たる理由があった。
「私はアイと結婚したくなかっただけ!」
 だってそうでしょ!? まだ私は二十年とちょっとしか生きてないのに、何であんな性根の腐ったジジイと結婚しなくちゃいけないなんて、そんなのかしいでしょ!?
 だけど、お姉ちゃんは私のそんな気持ちをまるで理解できないらしい。嘲笑を浮かべた。
「呆れた。そんな無責任な理由で戦争を起こしたの?」
「戦争は私のせいじゃない!」
 ヒッタイトの王子はエジプトの領内にまでたどり着くことは出来た。だけど、アイの私兵に殺された。つまり、私の計画は失敗したのだ。ヒッタイトの王は息子を殺された報復としてエジプトの支配地に侵略した。数多くのエジプト兵を殺し、沢山の捕虜を連れ帰ったらしい。
 罪の意識は感じてる。でも、それ以上私にどうしろって言うの?
 だいたい、戦争が起きた原因は、アイがヒッタイトの王子を殺したからだ。私のせいじゃない。
 お姉ちゃんは侮蔑の眼差しで私を見てから、ため息をついた。
「私についてきなさい」

=====

 私はお姉ちゃんの舟に乗せられ、ナイル川を下った。船団は十艘で構成されていて、詰め込まれている交易品はヌビア産のものが多かった。金、銀、銅といった金属とか、象牙、ダチョウの羽根と卵の殻みたいな動物製のものとか。資源を地中海まで運び込んで、そこで加工に長けた連中の手元に渡ることになるのかな。正直、私もよく分からないんだけど。なんせ、傀儡なんで。
 そして、お姉ちゃんの船団を観察して分かったことがある。
 どうやら、お姉ちゃんはファラオの地位を投げ捨てた後、商船団の長をやっていたということだ。何とも波乱万丈ですなあ、置いていかれた私達にしてみりゃ本当に良い迷惑ですわ。
 なんて文句の一つでも言ってやりたかった。でも、お姉ちゃんは終始忙しそうに船から船へと移っては指示を出していて、話をする機会は全くなかった。そう、全くだ。おい、それが十年以上ほったらかした妹に対する態度か。
 というわけで、船旅の間まわりには知らない人しかいなかった。ちなみに言えば、私の人生において初めての状況だ。どこかに行くときは必ず見知った女中たちがついてきたし、結婚したあとはカー君もいた。
 だけど、今は誰もいない。
 いや、帆の調整をしている人とか荷物の護衛兵とかあれやこれやといるんだけど、誰も私に関心を向けていない。
 生まれてから今までずっと私に絡みついてきた視線の圧力が、ふっと消え去ったのだ。
 すーすーする。服の周りとか。
 落ち着かないというか、体が宙に浮いちゃったみたいというか。
 あと、暇。何にもやることはないし、誰も私に何かをやれと言わない。
 私は何をするでもなく、川沿いの風景を眺めていた。
(そういえば、王宮から離れた場所にある村を見るのは初めてだ)
 王宮から見える場所にも集落はあった。私たちよりもさらにボロボロの家に住んでて、着ているものも貧しくて。顔や表情がぼんやり見えることもあったけど、私にはどうすることもできない。ただ、あそこにはどんな人たちが暮らしているんだろうって、よく想像をしていた。
 ナツメヤシの林に覆われた村々が、何度も私の前を通り過ぎていく。
 見たことの景色が広がっている。だけど、正直に言って、私は退屈していた。
(代わり映えもしないなー……普通だなー……)
 どの村もたいして見た目が違うわけでもない。暮らしている人の服装も顔もたいして変わらない。
 王宮の傍の村とほとんど一緒だ。
 ちょっと想像してたのと違った。
 たいして変わらない風景とたいして変わらない人々を延々見せられ続け、私は少し憂鬱な気持ちになっていた。
(結局、どこかに逃げ出すことなんて出来ないのかな……)
 王宮を離れれば、どこかには違う世界が広がっているんじゃないのか。そう思ってたけど、やっぱり甘っちょろい幻想なのかもしれない。
 どれだけ川を下っても村々は貧しそうだった。
 酷暑の太陽の下、繰り返しのような同じ景色が続いていく。それは私の日常にも似た、生ぬるい地獄が延々と続いているかのようだった。

 目的地についたのは翌朝だった。とはいっても既に陽は高い。焼ける様な陽光がナツメヤシの林に囲まれた村に吹き抜けている。
 私はちょっと驚いた。この集落は少し違ったから。
(なんか……元気だ……)
 こじんまりとしているけど活気に満ちている。子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。
 煙が出てる小屋もあれば、牛の姿も見える。農場と工房があるみたい。あと、なぜか女と子供しかいない。船を着岸させてくれたのも女の子だったし。
(女しかいない……どゆこと……?)
 女しかいない場所など世界中探してもそうそうないはずだ。それこそエジプトやヒッタイトのような大国の後宮とか、巫女さんが集う神殿とか。
 しかも、ここはそういう感じじゃない普通の村だ。さらにいえば後宮にも神殿にもない、生命力に満ちていた。
「こっちよ」
 驚いて立ち止まっている私を尻目に、お姉ちゃんはさっさと歩いていく。私は慌ててついていく。
 私たちは新しそうな小屋の前に着いた。一番大きい建物だ。窓から黒煙が出ている。工房だろうか。中は賑やかだし、村の中心にあるわけではないので神殿ではなさそうだ。
「どう? ここの衆が作ったの」
 お姉ちゃんは自慢げだ。確かに良くできてる。日干し煉瓦をとても丁寧に固めてる。
「これは……」
「工房」
「女だけでこれを?」
「ええ。立派でしょ?貴方の後宮よりよっぽど」
 同感だ。後宮は十二年前の遷都に合わせて急造したものらしくて、全体的に作りが雑なのだ。内装は凝ってるくせに。ティネトも自分の生家のほうがマシって言ってた、そういえば。
「入りなさい」
 木製の引き戸を押して、お姉ちゃんは招き入れる。
 吸い込まれるようにして、私は足を踏み入れる。
 竈があって、糸織機があって、皮革があって、黒曜石や花崗岩がある。木槌が振り下ろされる音が響いて、子供の笑い声も聞こえる。つまり、活き活きしてる。
 そして、やっぱりここも全員女だった。 
「え……超すごいじゃん、ここ」
「ここは私の工房よ。陶器を作ったり、服を作ったり、ヒエログリフを書いたり。皆には興味があることをやってもらってるの」
 職人は男しかなれない。私はずっとそう思っていた。なのに、ここには女しかいない。
 私の心は華やぐ。お姉ちゃんへの尊敬心が花のように咲き誇った。
 お姉ちゃんは失踪したあと、こんな工房や農場を経営してたんだ!
 お姉ちゃんがいることに気づくと、たくさんの人がお姉ちゃんのもとに集まってくる。
 色んな人がお姉ちゃんに相談してる。パピルスの原料が不足してるとか、ワインが余ってとても困ってるとか。
「私も聞いてるわ。アアムス家から約束を反故にされてしまったんですって?」
「ええ、どうやらシリア産やヒッタイト産のワインを安く手に入れたみたいで……」
「まあ、国産の味が落ちるということは否定できないけれどね」
「トト神の前で交わした正式な契約を何だと思っているんでしょう」
「トト神の御加護は双方にあるけど、王朝の庇護があるのはあちら側だけですからね」
「貴族たちめ……」
 そこで会話が途切れる。するとお姉ちゃんが何かを閃いたように私の顔を見た。そして、しばらく見つめた後、また興味を失ったようにこちらから視線を外し会話を続けた。
「まあ、幸いまだまだ時間はあります。小分けして各地の領主層に配るのがよいかもしれませんね。私の方でも王宮のほうに当たってみます」
 なんて風にお姉ちゃんはテキパキ答えてる。支持を受けた女性も颯爽とどこかに立ち去って行った。
 かっこいい! お姉ちゃんも! この人達も!
「お姉ちゃん!? この人達は誰?」
 お姉ちゃんは腕組みをしながら工房を見渡している。
「色んな事情で村や町にいられなくなった女性よ」
「……旦那さんが戦争で亡くなったり?」
「そうね。ここは私の工房の1つなの」
「ふーん」
 何気なく相槌を打った瞬間、お姉ちゃんは私の手首を掴んだ。
 その手は冷たく、込められた力は強い。お姉ちゃんの放つ雰囲気が豹変していた。
 静かに激しく、お姉ちゃんは怒っていた。
「何で貴方をここに連れてきたか分かる? 敢えて、この工房に」
 お姉ちゃんの視線は銛のように鋭い。貫かれた私は魚みたいに動けない。
「……わ、分かんない」
「ここにいるのは貴方が起こした戦争で、夫が殺された人達のほんの一部だから」
「……え?」
 頭を花瓶で殴られたような衝撃が襲った。
「分かる? これが、貴方が起こした戦争の結果」
 さっきまでキラキラ輝いていた目の前の光景から、突如として色彩が失われた。賑やかだった音も聞こえなくなり、自分の心臓が脈打つ音だけが静寂の中で響く。
 汗が、止まらない。
「な、あ、そん……」
 皆、活き活きしてる。だけど、皆旦那さんを失くしてる。家族を亡くしてる。誰のせいで? 私のせい? そう、 私のせいで。
 私のせいだ。
 凄まじい勢いで心が亀裂に覆われていく。みしみしと音を立てながら。
「ね、ねえ、お姉ちゃん。あの人達は私のこと、どう思ってるの?」
「さあ? 自分で聞いてみたら?」
 聞けるわけがない! なのにお姉ちゃんは鼻で笑ったあと、近くを通りかかった女の人に声をかけた。
「ヘカニ、ちょっといい?」
「はい、何でしょう」
「この娘がアンセケナーメン。例の我儘ファラオ。どう思う?」
「まあ……」
 私は俯く。顔なんて見られるはずがない。なんて言われるかどうか。強く言葉を浴びせられるだろうか。きっと、そうに違いない。私はそれだけの罪を犯したのだから。
「顔をあげてください」
 その優しい言葉は、あまりにも予想外だった。
 ヘカニと呼ばれた女性は、慈しむように微笑んでいた。
「夫が冥界に行ってしまったことは哀しいです。でも、結果として私と子供の未来が開けたのも事実なんです」
「未来が……開けた……?」
「夫の農場での生活は息詰まるものでした。他の妻達と一緒に生活しながら農業や裁縫仕事ばかりしていました。朝から晩まで、自分の子供を他の妻達の子供よりも良い地位に付けることばかり考えて。でも、今は私もこの子も毎日好きなことができて楽しいんです」 
 ヘカニは笑っていた。私は許される。一瞬思った。涙が出そうになった。甘かった。若い女の子が凄い剣幕で割り込んできた。
「あたしはお前が許せない! 今すぐサヌトを返せ! 返せないなら死ぬまで呪い続けてやる!」
 一瞬息ができなくなった。工房中の女たちが私を見ている。その視線は、私の罪を裁く矢のように感じられた。見ることができなかった。彼女達が何を思って私にどんな感情を向けているか、怖くて見られない。
 逃げ出そう。この場から、逃げ出そう。
 愚かな考えが脳裏を過る。だけど、膝が震えて、動くことが出来ない。
「あ、ああ……」
 耐えられたのは、ほんの数秒だった。床に落ちたワイン壺が砕け散るように、私の心は木っ端みじんになった。
 そして、崩れ落ち、泣き喚いた。
 私がどれだけ多くの命を奪って、どれだけ多くの幸せを奪って、全部メチャクチャにしてしまったか。とても数えきれないだろう。そして、その全てはもうどうしたって取り返しがつかないのだ。
 私はいったい何百万の人々を不幸にしたのだろう。
 慟哭が沈黙を支配する。私は涙も鼻水も涎も垂れ流してひたすら泣きわめく。何も考えることはできなかった。ただ、地を叩き、引っ掻き、頭を叩きつけながら罪の意識を吐き出そうとする。
 女たちは何も言わなかった。ただ、私の姿があまりにも無様だったのだろう。少しずつ同情をするような雰囲気に変わっていった。
「さっきも言ったけど、あたしは絶対にお前を許さない」
 私をどなった若い女の子が少し気まずそうに口を挟んだ。
「……でも、あたしがお前の立場だったらきっと同じことをしたと思う」
 女の子はそれだけ言うと、足早に外へと去っていった。
 でも、私の涙は止まらない。
 そして、私は理解する。きっと皆はただ私に対して怒りを燃やしているわけじゃない。人それぞれ異なる複雑な感情を抱えている。
 だけど、今の私はそんな彼女たちの視線を受け止めることさえできなかった。
 本当にどうしようもない。どうしようもない奴だ、私は。
 私が命を絶つことで何もかも元通りになるなら、喜んでそうする。
 でも、そんなことしても何も起きない。
 だって、もう、私はやらかしてしまったのだから。

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「何で私がファラオの地位を棄てたか分かる?」
夕方、帰りの船の中でお姉ちゃんは私に尋ねた。
知らん。こっちはまだ涙も鼻水も乾いとらん。
「ファラオには誰も救えないと思ったからよ」
 お姉ちゃんは川岸を眺めながら、つぶやいた。
「え……お姉ちゃんは私と違ってお飾りじゃ」
「私は飢えや争いを失くしたかった。でも、この国は腐敗していた。玉座から命令を下しても、その命令が皆に辿り着くころには形が変わってしまうの。だから、もっと民に近づこうと決意して王宮を飛び出した」
 風が強く吹き、帆が激しくはためく。積み荷のワイン壺が転がり、がらがらと音を立てる。
「そして、ツタンカーメンと貴方を見捨てた」
 お姉ちゃんのしたことは最悪だ。少なくとも私とカー君にとっては。
 でも、今の私には分かる。自分の決断が誰かを傷つけることを知っていた。それでも成し遂げたいことがあった。
 だから、お姉ちゃんは責任を取った。
 夕日に照らされるお姉ちゃんの横顔はいつものように冷静だ。だけど、誰にも見せないけれど、実は心の奥底で深い苦悩や葛藤を抱えているのかもしれない。
 私はお姉ちゃんをじっと見つめる。お姉ちゃんは一瞬だけ私と視線を合わせた。
「でも、現場に近づけば近づくほど助けられる人数も減るでしょ?」
「……そんな、気もする」
「そうなの。だから、救う範囲を女性だけに絞ろうと決めたの」
 ここでもお姉ちゃんは決断をしている。だけど、何で女だけ救おうとしたのだろう。
「……男は?」
「エジプトは専制的な帝国よ。一握りの王族や貴族だけが富と自由を享受している。女性はもちろん、大部分の男性も苦しんでる。でも、私には女性のほうが窮屈さを感じているように見えたの」
 私は何も言わず、その横顔を見つめる。お姉ちゃんの言葉は、たぶん事実だと思う。家督を継ぐのは男だし、職人仕事は普通は男しかできない。ファラオになれるのだって普通は男だ。女のファラオは男の傀儡、私みたいにね。あと、男は奥さんを沢山もらえるけど、女はたくさん旦那さんをもらえないのも不公平だと思う。別にいらないけど。
 なんて、考えてるとお姉さんが突然立ち上がり、船の穂先に立った。
「……よっと」
「……お、お姉ちゃん!?」
 私はびっくりした。まずはそんなことをしたら落ちるよ!? という心配した。その次にお姉ちゃんの表情だ。私を見つめる微笑みが、いつものお姉ちゃんからは想像もつかないほど無邪気なものだったからだ。
「というのは建前よ」
「た、建前?」
「だって、女性の方が感情移入しやすいでしょ?」
 ナイル川の風を全身で受け止め、白亜麻の服を風に泳がせ、お姉ちゃんは心地よさそうに目を細める。船が揺れて体が倒れそうになっても楽しそうにクスクス笑う。
 私は全身で感じた。お姉ちゃんは自由だ。私やカー君にはない自由を持っている。咽喉から手が出るほど欲しいものをお姉ちゃんは持っている。私やカー君にはない自由を持っている。もちろん、危険な目にもたくさんあっただろうし、命を失いそうになったこともあったのかもしれない。
 それでもだ。このまま一生を籠の中の小鳥として終えるであろう私には決して掴むことのできない生きる意味が、お姉ちゃんの人生にはあると思うのだ。
 (それに……責任だって取れるはず……!!!)
泣きながら私を責める女の子の顔が脳裏を過った。
 私の中から熱い気持ちが湧き上がってきた。居ても立っても居られない。
 私は何も考えられなかった。ただ、心のままに、情熱に突き動かされて私は叫んだ。
「お姉ちゃん!」
「……な、何?」
「私達もお姉ちゃんと一緒に行きたい!」

「それでお姉ちゃんは何て言ったと思う!?」
 後宮の自室で、私は憤慨していた。お姉ちゃんに王宮まで送り届けられたあと、私は着の身着のままティネトのもとへ直行した。そこで大声で何があったかしゃべろうとしたら口をふさがれ、「お話はアンセケナーメン様のお部屋でお聞きします」と連行され、一気呵成に事の顛末を語り終え、今に至る。
 目の前には呆れかえったティネトの顔がある。
「だいたい想像はつきますが……、どうぞ仰ってください」
「お姉ちゃんはね、『駄目に決まってんのでしょ、だって貴方ファラオでしょ。だいたい人を雇う余裕なんてないし』って言ったの!」
「でしょうね」
「ぴぎゃー!!」
 冗談じゃない! 今すぐにでもこの家から飛び出したい! こんな家は鳥かごみたいな家! エーゲ海風の壁画も、瑠璃の水差しも、ファラオの証たる黄金の杓も、もう全部いらない!
 私は、私のやらかしたことの責任を取りたい!
 どうやって? 分かんない! どうするつもりなの? 分かんない!
「ティネト!?どうすればいいと思う!?」
「というか、そもそもそんな重要な話を女中ごときに他言してはいけません」
 ティネトはこめかみのあたりを指でさすりながら、厄介ごとにどう対処すべきか考えている。
「ティネトだけは特別! だってティネトも一緒に行くから!」
「この期に及んでそんな冗談を」
「冗談なんて言ってない!」
 ちょっとイラっとした! いや、すんげえイラっとした! ここまで言ってどうして伝わらないんだ! ここまで謙虚だと逆に失礼だっつうの! 
「ティネト! 私は一度も冗談なんて言ってない!」
 ティネトは二度三度大きく瞬きをして、深く澄んだ黒曜石色の瞳でまっすぐに私を見つめた。
 まるで私を試すように見透かすように。
 でも、試練は一瞬で終わった。へへっ、当然!
「たった一日で大きく成長されたようです」
 ティネトは私の頭をなで、それから白亜麻の服についている葉っぱや木くずを丁寧に取り除く。
「良い提案がございます」
「何でも聞きますでございます!」
「メリトアテン様から王宮に対して、格安でのワイン購入の打診があったらしいのです」
 そういえば、帰りの舟にやたらワイン壺があったな。しかも、村の公房ではどっかの貴族からドタキャンを食らって在庫余りになってるとか……。
「しかし、王宮はメリトアテン様のワインを買いませんでした」
「それは珍しい。アイ、ワインだったら手当たりつけずに買ってんのに」
「そうなんです。しかし、最近、シリア産の大量に買ってしまったので倉庫にも新たに搬入できない状態だったのです。つまり……」
 私は察した。
 ティネトは珍しく意地悪な笑顔を浮かべた。
 へへ、どうやらアイに悪戯してやれそうだ。

 時間は飛んで今は真夜中、私とティネトは後宮の離れにある我が家の外壁の傍に立っている。目の前にはアイのワイン壺を並べていある。全部でだいたい五百。大半のエジプト人は一生口にできない高級品がずらりと並んでいる。
 そして、特別な正体客が目の前にいる。
「深夜に呼び出すなんてどういうつもり?」
 お姉ちゃんが苛立たしげに腕組みをしてる。
 おー、こわ。お姉ちゃん、昔っからキレると目がおっかないんだよなー。
 でも、ここで引いたら私の負けだ。
「お姉ちゃん、私の覚悟を見てて」
 私は胸を張って宣言したあと、ティネトと一緒にワイン壺の蓋を開けた。そして、
「よいしょ!」
 中身を家の屋根へぶちまけた。
 びしゃりと音がした。葡萄の甘い匂いが漂い、砂漠の夜気に吸い込まれて消えた。
「……は?」
 お姉ちゃんは呆然としてる。
 一方、私とティネトは黙々とワイン壺をぶちまける。時間があるわけじゃないから、急がないとね。うわ、ヒッタイト産もあるよ。何だよ、婿は連れてこれないくせにワインは連れてこれねえのかよ。ったく、この国の偉い人はしょうもねえな。
「……貴方達、何やってるの?」
 お姉ちゃんは困惑しきってた様子で私たちのすることを眺めていたけど、やっぱり頭の作りが私とは違う。すぐに私達がやりたいことを見抜いた。
「馬鹿じゃないの!?  そんなことしたら貴方の家は……!」
 そう。私の家は、なんと溶けはじめているのだ。
 何でか知りたい? へへ、じゃあ教えてあげよう。たとえ、王宮であってもわたしたち人間が生活する場所は日干し煉瓦でできているの。 ピラミッドとか神殿は未来永劫残す必要があるから違うけどね。
 それで、まあ、煉瓦なんて言ってるけど、ただ泥を固めて日で干して固めただけ。つまり、水をかければ泥に戻っちゃう。
 私達の家、手間が全然かかってません! 神殿には何十年も時間かけるくせに!
 おまけに私達の後宮は特に造りが雑。十二年前の遷都の時に急造されてるからね。特に屋根は脆くて、あっという間にグチョグチョになってボトボト落ちていく。
 私の白くてきれいだった服は、ワインと泥でぐちゃぐちゃに汚れていく。
 私はこの家が嫌いだった。出ていきたいほど憎んでいた。そのくせ、出ようともしなかった。だから、外の世界を知ることができなかった。知らないから想像できなくて、大きな過ちを犯してしまった。
 取り返しのつかないほど、大きな過ち。見えなかった。知らなったじゃ言い訳にならないような。
 でも、そんな生き方はもう今日で終わり! この家を壊して、私は前に進むのだ!
 重たいワイン壺を一生懸命持ち上げて、この家をナイルの大地に還す! 腕がしびれても、肩が上がらなくなっても、それでも歯を食いしばって、全力を振り絞って、安全だった住処を力任せにぶっ壊してやる!
 突き進む! 強引にでも!
 最後の一壺をぶちまけたのは日の出が近づいた頃だった。まだ、私の家は下半分くらいが残っている。全部は溶かせなかった。でも、私は責任を負って行動した。
 そして、身体中ワインと泥にまみれた姿でお姉ちゃんと向かい合う。
 先に口を開いたのはお姉ちゃんだった。
「要求を聞きましょう」
「私がお姉ちゃんの農場のワインを買う」
「支払いは?」
 私は溶けた壁を跨ぐ。飾ってある黄金の杓を手に取った。ファラオであることを証する杓。先祖代々受け継がれ、未来へと引き継がれるはずであった黄金。
 私はお姉ちゃんに差し出す。
「これを溶かして使って」
 お姉ちゃんは何も言わなかった。かつて自分も所有していたものだ。意味は十分に分かるだろう。
 私はお姉ちゃんに改めて頼んだ。
「私とティネトを連れていって」
「騒ぎになる前に搬入を終えるわ。二人とも今すぐ手伝って」
 お姉ちゃんは即答した。拍子抜けするほどだった。
 目を丸くすると私とティネトに踵を返し、お姉ちゃんは自分の船へと向かった。
 達成感が胸の奥から一気に吹き上がった。
 私の世界に新しい風が吹き込んだのだ!
「やったね、ティネト!」
 ティネトの手を取って私は小躍りする。ティネトは優しく微笑んだ。
「さっそくワイン壺を運び出しましょう。さあ、急ぎましょう」
「うん!」
 振り返ることなく、私とティネトはナイル川まで駆けていく。成すべきことが沢山ある。何をすればいいかまだ分からないけど、とにかくある! 数えきれないくらい!
 私は息を切って走り続ける。外は相変わらず真っ暗だ。それでも前よりは明るくなった気がする。
 湧き上がる情熱だけを灯に、夜明けを目指して私は突き進む。
 そこにしかない何かを掴み取るために。

 あ、そうだ。忘れてた。
 じゃあね、カー君!

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