Johnny Lytleはオハイオ州出身のジャズ・ヴィブラフォニストだ。

Roy Ayers的な色気満点なタイプではなく、どちらかというとLionel Hampton的なファニーでゴキゲンなサウンドに近い。
時代の寵児、では決してないだろう。
だが、いわゆるレア・グルーヴの観点から再評価が進んでいるらしい。
再評価が進んでいる。
なんとも遠回しな日本語だ。
Close Enough for Jazzの魅力
こんな音楽があるのか、と楽しい衝撃を受けた音楽だ。
本作は確かにジャズである。
しかし、マイルスやコルトレーンのようにアーティスティックなわけではない。
エバンスのようにエレガントなわけでもない。
Close enough for Jazzという表題が本作の魅力の一端を表している。
ジャズのように魅力的だが、いわゆるジャズとはちょっと違う。
ジャズのエッセンスをふんだんに取り入れながらもソウルフルでゴキゲンで、スモーキーなのに身体が自然に動くような朗らかさが満ちている。
今なら、ファンクの影響を取り入れたソウル・ジャズに組するサウンドだと分かる。
ただ、それでもいわゆるソウル・ジャズとも少しずれていることもまた分かる。
ヴィブラフォンの澄んだ音色とオルガンのオーガニックなグルーヴがぶつかり合う冒頭から一気に曲の世界に引き込まれ、ウッドベースとドラムス/パーカッションのドカドカとした豪快なスイングビートに触れてしまったら最後、あっという間に本作の虜になってしまう。
既存のあらゆる「評価軸」とは異なる立ち位置にあるタイプの魅力だ。
特に天衣無縫なヴィブラフォンとソウルフルなオルガンの組み合わせは、本作の魅力の根底を成している。
ファニーでキャッチーなのにじわじわと染み込むソウルフルさも持ち合わせ、明色系のグルーヴを絶えず刻み続けている。
グルーヴィーでラウンジー、スモーキーでエレガント。
分かりやすくて底知れず、ゴキゲンで骨太なビートを叩き出す。
今のところ、時代時代によって変わりゆく「評価」に本作が触れたことはない。
CDにもなっていないし、サブスクリプションにも存在しない。
評価を決める連中の視野が広くないのも事実だが、いつか本作も正当な評価を受けるときが来ると良い。
そう願っている。
結果的には幸運だったらしい
Close Enough for Jazzとの出会いは、今になって思えばとても幸運だったように思う。
音楽を「批評」する層の評価軸から私を自由にしてくれたからだ。
必然的に彼等が取りこぼさざるを得なかった音楽の魅力が、本作には詰まっている。
姿かたちを自由自在に変え、何物にも縛られない。
音楽が持つ魅力のそんな一面に、本作Close Enough for Jazzのおかげで気づくことが出来た。
初めて聴いた当時はそんなこと全く考えてなかったんだけど。
まあ、諸々の諸々を経た今となっては、自分はラッキーだったと認識せざるを得ない。
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