日々思うこと。諦めるということ。『ニック・ランドと新反動主義』を一例として

『ニック・ランドと新反動主義』を読んで思ったこと

こないだ『ニック・ランドと新反動主義』を読んで、ふと思ったことがあった。

新反動主義は啓蒙思想(ざっくり言うと平等や正義)を掲げた近代社会の行き詰まりとして現代を定義し、そこからの脱出を図るためにあえて資本主義の悪い側面を加速させていく。そして、極限まで突き詰めた先には人間を超越した「何か」がある、というややオカルト的ともいえる主張だった。

近代思想の行き詰まりというところについては僕も同意する部分がないわけではない。
なにせ、僕も弱肉強食の資本主義に追いやられドロップアウト寸前だ。
新反動主義に共鳴する人々だって、多かれ少なかれ僕と同じような状態にあるだろう。
ただ、僕は新反動主義者たちの考え方はあまりにも極端だと感じている。

その極端さは、あまりにも子供じみている。
例えるならポーカーやチェスで負けそうになったら、盤をひっくり返すような(あるいはわざと負けようとするような)もので礼儀やルールから逸脱しているだけでなく、今まで戦ってきた自分の足跡さえ無に帰してしまう。
自暴自棄なる革命への希求とも言える。

つまり、彼等は自分達の負けを認められない状態なのだと思う。

本当に状況をひっくり返したいのならば負けを認めたうえで、それでも何を残せるかを冷静に考えるべきだ。
サッカーのリーグ戦で0-5になってしまった時に試合を放棄するのではなく得失点差のために1点を取りに行くように。

自分たちの世代では最悪な資本主義を改善することができなかったとしたら、じゃあ最低でも何が出来るのか冷静に考え、次の世代に繋がる小さな何かを残す。

真っ暗闇の中にたいまつを一つ灯して次の世代に託す。次の世代のまたたいまつを一つ灯して退場する。

長い世代を経た先には、明るい世界が出来上がっているかもしれない。いないかもしれない。

でも、新反動主義者のように(あるいはTwitterで正義感を炎上させている人々にように)、現実を直視せずに極端な行動ばかりとっていては、過去の人達が必死に積み上げてきたたいまつすら燃やし尽くしてしまう。

たぶん、正義と憎悪が一体化した炎が過ぎ去った跡には、何も残らないと思うのだ。

世界を変えるのは革命じゃない。小さな積み重ねだ。

だから僕は諦める。

だから、僕は人生を諦めようと思う。
そして、僕には何が残せるか考えようと思う。
誰に何を残したいか考えたいと思う。
そのためにはどう行動すればいいのか必死に考えたいと思う。

僕は悔しいほどちっぽけで、無残なほどに無力で、それでも現実から目を逸らして生きていたくはない。

歯を食いしばって、誇りを抱いて、自分の道を歩いていく。
甲高い嘲笑に耳を塞ぎ、孤独に涙する夜を乗り越え、虚勢と闘志を世界に突きつけながら。
それでも、きっと何かを残せると信じて。

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