吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日/森光子

とにかく気持ちが沈んだ。
罪悪感で、気分も悪くなった。

本来、私はこの手記について何か語れるほど人間的に成熟していない。

だから、書きたくない。
しかし、落ち込み過ぎて何にも手が付かないこの気持ちは、生活するためにもどうにか昇華せねばならない。



著者の森光子は1905年生まれ、高崎の貧しい家庭に生まれて、石川啄木の詩集を愛し、そして遊郭に売られた。

彼女が脱出を試みるまでの歳月、その手記が綴られている。

もう、最初から凄絶だ。女衒は吉原がどういうところなのかを一切教えない。遊女屋も、本当にギリギリまでどういうことをする場だと教えない。

そこからあとは強烈だ。怒りと不屈の魂と絶望がないまぜになったような日記が続く。

彼女は聡明で強い。同僚の遊女たちの人間性を見抜き、時に困惑し愛しながら染まらない。
男に対しても媚びない。気を許した客には時には怒りや殺意を口にすることもあったようだ。
(そして、それが人気を呼ぶことにも繋がる)

特に男性に対する冷たく冷静な視線は、男主体の幻想的な遊女では絶対に描けないだろう。

稼ぎのほとんどが遊女たちに入らない残酷な仕組みをドライに描写することも、花魁をそんなに綺麗じゃないと判断する心も。

客の男はもちろん、同僚の遊女も少し下に見ているところも。

あと、故郷の母親は遊郭をどんなところが分かったうえで自分を売ったのかもしれないと気付くシーンは、辛くて数分ページを読み進められなくなった。


とにかく、こういうのを読むと男性として生まれたことの罪悪感にさいなまれる。

人は誰しも、ただ存在しているだけで誰かを傷つける。

それに例外はない。

しかし、これはやっぱり心を抉る。自分の存在が根底から悪であると突き付けられるような感覚。
それは少なくとも全面的に間違いというわけではないだろう。


吉原遊郭に関する文章・本。男性が書いているものは、あとマンガやアニメは、その文化的な一面や華やかな一面を強調しがちだけれども、やっぱり生の声を突き付けられるとそれは違う、と思う。


しかし、この森光子という方は、とにかく強く聡明だ。その文章は強く、感性豊かで、詩情に満ちて、時に渦巻く負の感情を生々しく伝えている。

そして、正直に言うと、遊女として人気が出た理由をなんとなく察してしまった。そんな自分が非常にイヤだった。

あと、それから。コミック版は表題が若干違っていて、「吉原花魁残酷日記」になってる。

そんな題名付けられてさ、本人が喜ぶと思う?
もちろん責めるべきは出版社じゃない。そんな言葉の需要がある文化を創り出してしまった過去の連中と現在のそんな文化を支えている我々だ。

そもそも本書の現題は『光明に芽ぐむ日』だ。それはなぜか? その理由は本著の中で説明されてる。教養のある客から君なら本を出せると褒められた光子は、少しくすぐったそうにしながら、それでも「吉原花魁」という看板で自分の文章に興味を引くことに違和感を覚えているからだ。

心を豊かにもって、実力を養いたい。

そう記していた。

素敵な言葉だし、尊敬もできる。だけど、私が本書と出会えたのは「吉原花魁日記」という看板があったからだ。
自己への嫌悪と世の中に矛盾への、で、俺は一体どうすればいいわけ。

何にせよ、その強さと聡明さは尊敬できると思ったし、見習わなければならない。

というわけで、いつまでも落ち込んではいられない。
私にも私の生活がある。

どんなに罪や悪にまみれていても、死ぬまでは生きていかなくてならない。

いつまでも落ち込んでないで、もう一度歩き出せ。

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