こんにちは。
『物語 アラビアの歴史』はおよそ3000年に渡るアラビア半島の歴史を叙述した書籍です。

個人的には、着眼点がユニークな書籍だと思っています。
目次
『物語 アラビアの歴史』のユニークな点:場所としてのアラビア
本書はアラビア半島に焦点を当て、その「場所」における時代の流れを追っています。
通常、アラビア半島とイスラム教はセットと考えられがちです。
一般的な歴史書や教科書で考えてみましょう。
叙述の始まりがアラビア半島であってもイスラム国家が世界を席巻するにつれて、叙述のカメラはイラク、シリア、トルコへと移っていくのが一般的ではないでしょうか。
しかしながら、『物語 アラビアの歴史』は歴史を学ぶ際にアラビア=イスラムと思い込んでしまうがゆえに、見逃している多様な面を見せてくれます。
本書においてイスラム教が登場するのは、半ばを過ぎてから。
そして、その前も後も好奇心を刺激する多様な歴史が描かれています。
『物語 アラビアの歴史』のあらすじ
まず、個人的に面白かった点について簡単にまとめてみます。
全体構成
本書は8章構成になっていますが、もっとざっくり分けるのであれば下記のとおりです。
- 紀元前一千年紀を通して:黎明期。古代アッシリアやギリシャ・ローマとの関係性
- 三世紀~:サーサーン朝、ビザンツ帝国、アクスム王国という三列強に囲まれながら
- 七世紀~:イスラムの誕生・拡大、そして空洞化するアラビア半島
- 十六世紀~:ヨーロッパ人とオスマン朝の狭間
では、上記に従って各パートごとに見ていきましょう。
1.紀元前一千年紀を通して:黎明期。古代アッシリアやギリシャ・ローマとの関係性
「アラブ」の登場
アラブという呼称が歴史上初めて登場するのは紀元前853年のアッシリアの碑文です。
そこにはアッシリアの敵であるシリア連合軍に、「アラブ」の人々がラクダを提供していた旨が刻まれていたそうです。
ただ、当時は特定の民族を指すのではなく、定住民側から見た遊牧民という意味合いで使われていたようです。
では、なぜ「アラブ」の人々がこの頃から大国の文字資料に現れるようになったのか。
ラクダに乗るための鞍が改良され、砂漠を超えてオリエント世界の中心地への隊商を組めるようになったからなのだそうです。
また、オリエント世界とコミュニケーションを取れば当然文字の存在を知るようになります。そして、都市が発展した南アラビアでは独自の文字も記す国家が現れるようになりました。
その中には旧約聖書の出てくるシェバの女王の語源にもなったサバァ王国もあります。他にもカタバーン、マイーンなどの王国がありました。
彼等は大国には朝貢しつつ互いに覇権を巡って争っていたようです。
アレクサンダー大王の余波
インドから帰還したアレクサンダーの次の目標はアラビア支配だったそうですが、バビロンに帰還した後に彼は亡くなってしまいます。アラビア半島からすればギリギリのところで危機を回避した歴史的なターニングポイントだったのかもしれません。
さらに、アレクサンダーの後継者たるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトはアラビアへの関心は薄かったようです。幸運が重なったといえるかもしれません。
そして、オリエントの情勢が安定したこともあってか、アラビア半島ではペトラなどの交易都市・小王国が発展するようになりました。
紀元前一千年紀末までにはカタバーンなどの王国が滅びる一方で、ヒムヤルなどの新興国が勢力を増していました。
また、一世紀以降は交易ルートに変化が生じ、シリア砂漠にパルミュラなどの都市国家が生じるようになります。
その頃、南アラビアではサバァ、ヒムヤル、ハドラマウトの三国が鼎立するようになりました。
2.三世紀~:サーサーン朝、ビザンツ帝国、アクスム王国という三列強に囲まれながら
アクスム王国の支配
三世紀から七世紀にかけての古代オリエント世界において、
- 東にサーサーン朝
- 西にローマ(四世紀以降はビザンツ)
- 南にアクスム王国(エチオピア)
が三大列強であるという認識があったようです。
アラビアはまさに彼等のど真ん中という地理的条件にありました。
争いを繰り返すローマとサーサーン朝を尻目にアクスム王国は海を越えてアラビア南部へと侵攻し、アラビア諸王国の間で徐々に影響力を強めていきました。
そして、ヒムヤルの後ろ盾となったアクスム王国は大きな影響力を握るようになり
(ヒムヤルもその力を借りてアラビア半島内での勢力を強め)、
エチオピア側からの住民の移住も行われていたようです。
イスラム前夜
イスラーム的観点から見てジャーヒリーヤ(無名、無知)と呼ばれるイスラム前夜のこの時代は無名でも無知でもなく、複雑で迫力のある活動力に満ちていました。
ヒムヤルとその周辺の王朝たち、
彼等を翻弄し、時に翻弄される三大国、
そして、その背後で複雑に絡まり合うユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教。
これらが複雑に折り重なりながら、ダイナミックな時代絵巻を創り出しています。
・宗教
ユダヤ教が流入したのはローマ帝国内で第二次ユダヤ戦争が鎮圧され、旧イェルサレムへのユダヤ人の立ち入りを禁止されたことが契機になっています。
一方、キリスト教は教会内の教義を巡る論争と関連しています。
325年のニケーア公会議でアリウス派は異端とされました。しかし、その後のローマ皇帝コンスタンティウス2世からは熱烈に支持されており、ヒムヤル王のもとに使節を派遣するに至りました。
(ヒムヤルの王家自体は長らくユダヤ教だったようですが)
ヒムヤル王家はユダヤ教、
そしてその後ろ盾とも言えるアクスム王国はキリスト教(非カルケドン派)、
サーサーン朝はゾロアスター教、
ローマ(ビザンツ)帝国はキリスト教(カルケドン派)、
と複雑に入り組んでいます。
・戦争:外交
ヒムヤルの北方衛星国であったフジュル朝が最も権勢を誇っていたのは、ハーリス・アルマリクの時代です。
他のアラビア半島の小国家ナスル朝の首都を占領するだけの実力が持ち、ビザンツ帝国と同盟の協約(おそらくヒムヤルも了承済みとのこと)を結んでいます。
しかしながら、ビザンツ側の現場監督と不和を起こし、その隙をナスル朝に狙われて討たれています。
そして、ハーリスを討った側であるナスル朝のムンズィルは、もう一つの大国サーサーン朝に組していました。ムンズィルはビザンツ領内で略奪や破壊を繰り返してその勢力を削ぎ、サーサーン朝に大きな貢献をしていました。
ただ、興味深い事例があります。ユダヤ教徒であったヒムヤルから反キリスト運動に手を貸すように頼まれた際に、首を縦に振らなかったことです。
ゾロアスター教を奉するサーサーン朝に組してキリスト教国を蹂躙しようとも、
ナスル朝は多くのキリスト教徒を抱えていたため、慎重に対応せざるを得なかったようです。
また、キリスト教国であるアクスム王国がユダヤ教徒であるヒムヤルの王を何度も変えていることも印象的です。
ちなみにその後、ヒムヤル内部でユダヤ教とキリスト教の対立が顕在化もするようになり、迫害なども起きています。
・結末
最終的にはサーサーン朝によってヒムヤルは滅ぼされます。それはアラビア半島南部におけるサーサーン朝の支配が確立したことを意味し、アクスム王国がアラビア半島における足掛かりを失ったことを意味しました。
3.七世紀~:イスラムの誕生・拡大、そして空洞化するアラビア半島
イスラム教の誕生
従来、ムハンマドの宗教的覚醒は七世紀のメッカの環境に因るところが大きいと考えられてきました。
アラビア半島随一の都市が享受する繁栄、
その裏側にある市民の格差、
そこから導き出される人々の精神や生き方の荒廃。
ムハンマドはそれを解決すべく懊悩し、その果てに教義が生み出された。
という訳です。
しかし、著者はそれに異を唱えます。
太平天国の乱などを引き合いに出し、触媒になっているのは様々な大国、様々な宗教などに長年にわたって翻弄され続けたことにより社会に沈殿した集団的ストレス・不安であると主張しています。
拡大するイスラム教徒と空洞化するアラビア半島
イスラム教は紆余曲折を経つつも急速に勢力を拡大していきました。
その背景にはアラビア半島での足掛かりを失ったアクスム王国や、長年にわたる闘争で疲弊したビザンツとサーサーン朝の存在があったのは言うまでもありません。
いざ勢力を拡大しようとした時、イスラム教の目の前には巨大な空洞地帯が広がっていたのです。
その後、大規模な王朝となったイスラムの拠点はイラクやシリアに移り、活気に溢れた若者などもアラビア半島を出ていきます。
その結果、今度はアラビア半島が空洞化して数百年に渡り沈滞することになります。
ただ、九世紀に入ってイスラムの征服活動が収まると、政情自体は安定していきます。地中海世界とインド洋世界を繋ぐ香辛料等の交易も活発化し、イエメンがその中継地点として発展をするようになりました。
4.十六世紀~:ヨーロッパ人とオスマン朝の狭間
大航海時代
大航海時代に入るとまずはポルトガルの船がアラビア半島に姿を見せるようになります。ポルトガルはオマーン海岸、ペルシア湾などを攻撃・占領し、次々と拠点を設置していきます。
マムルーク朝は紅海の拠点であるアデンだけは死守するものの、マムルーク朝がオスマン朝に滅ぼされてしまいます。そして、オスマン朝とポルトガルがアラビア半島の覇権を巡って争うことになります。
イギリスやオランダも到来するだけでなくイランのサファヴィー朝も加わり、アラビア半島を舞台にして複雑な勢力図を築き上げていきます。
アラビアの内側
そして、その睨み合いのような状態からオマーンではヤアーリバ朝が成立し、伝統的な黒人奴隷の貿易を行っていました。
イエメンではカースィム朝がオスマン朝の支配を脱し、コーヒーの輸出で財を成しています。
また、コーランとスンナ(予言者ムハンマドの言行)だけに基づく純粋なイスラームの復興を目指すワッハーブ王国がアラビア半島のほぼ全土に影響力を及ぼしていたことも特筆すべきでしょう。
しかし、オスマン朝エジプト総督ムハンマド・アリーによって鎮圧されてしまいます。
一方、オマーンなどでは海賊がひどくなり、その対策を求めてイギリス保護国化が進んでいきます。
(二十世紀から現代に至るまで、似たような動きがアラビア半島各地で続いていきます)
『物語 アラビアの歴史』の魅力:印象に残ったこと
モノゴトの複雑さ
印象に残っているのが、オマーンが奴隷貿易の中継地点として長年利益を得てきたということです。
黒人奴隷は、人類が共有すべき繰り返してはならない歴史です。
しかし、黒人奴隷の話をするときの基本的には加害者である白人と被害者である黒人という構図になります。
アラビアの人々が、話題に出てくることはほぼありません。
しかし、人をモノのように売りさばいたということの重みは変わるわけではありません。
さらに言えば、違う人種をモノのように売りさばくのも同じ人種を売りさばくのも重みは変わらないはずです。
もちろんアフリカで暮らしていた人々には何の罪もありません。
問題にすべきは、贖罪の在り方です。
我々の認識は、あまりにもシンプル過ぎるようにも思います。
もちろん、モノゴトの白黒をハッキリつけなくてはならないときはあります。
しかし、モノゴトの裏に横たわる複雑なグラーデションの存在を知っているのといないのでは、白黒のつけ方の精度があまりにも違ってくるとも思います。
史料の読み方が変われば、歴史も変わる
アクスム王国とヒムヤルの関係性を示す史料は270年から六世紀に入るまでの間については存在しません。
270年以降の碑文にはヒムヤルはアラビア半島各地に遠征を繰り返し、他勢力を排除したことが記されています。
その一方アクスムの名前が登場しなくなっています。
そして、古代南アラビア史研究者の一般的な理解によれば、これがヒムヤルがアクスム王国をアラビア半島から一掃し、完全な独立を勝ち取ったことになるそうです。
実際にはアクスム王国の金貨が多数南アラビアから発掘されていたり、ヒムヤルがアクスム王国に従属していることを示唆するラテン語文献が存在しているにも関わらずです。
著者はその点を見事に指摘しています。
歴史学者は世界中の優秀な人々がストイックに研鑽を積み、一握りの人々がようやく辿り着ける地位です。
それが、そんな彼等でさえ初歩的なミスをするのだから驚きです。
見えるモノに視野が集中し、見えない部分を都合よく想像して補填してしまう。
しかしながら、本当に大切なことは見えない部分にあります。
断片しか見えていないのに自分を過信し、中途半端に相手を理解したつもりになってしまうことは愚の骨頂です。
人間の性なのかもしれませんが、そういう愚かさに縛られないでいたいものです。
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