孔子『論語』とは何か。名言や格言に満ちた人生の教科書か? 克服すべき過去の道徳か?

こんにちは。

紀元前文学、第20回は孔子の『論語』です。

子曰く、というセンテンスを習った記憶をお持ちの方も多いかと思います。

成立年代は、諸説あるようですが、紀元前5世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に編纂されていったと考えられています。

『論語』とは:東アジアの文化に深く根付く孔子の思想の原点であり、シンプルにまとめたもの

孔子って誰?

孔子は紀元前6~5世紀、いわゆる春秋時代の人物です。

春秋時代は数多の小国家が戦乱を繰り返す時代でもあり、乱世以前の氏族主義的倫理観が崩れ去った時代でもありました。

道徳観念も崩れ、小国が乱立する。
そんな困難な時代において、人々は新たなアイデンティティとなる倫理観を探し求めていました。

それゆえ、老子や荘子、 墨子といった後に諸子百家と呼ばれる様々な思想が奔流のように生まれたのです。
孔子はその中でも最も有名な人物と言えるでしょう。

孔子が生まれ育った魯には周王朝開闢時の古い礼節が多く残されていました。
つまり、魯には過去の道徳に関する豊富な文化資源があったのです。

孔子はそんな文化をたっぷり吸って生まれ育ち、その結果、古き良き時代の礼節を重んじる儒教を創生します。

『論語』って何?

『論語』は弟子との短い問答を、孔子の死後に弟子達が編纂したものです。

20編に分けられた512文から成り、意味深な言葉から直接的な政治批判までその内容は多岐にわたります。
ただし、『論語』の根底には、正しい生き方や正しき為政者の在り方などの道徳観があります。

その教えは儒教と呼ばれ、中国はもちろんのこと日本を始め東アジア各地に深く根付き、各地の文化に大きな影響を及ぼしました。

『論語』の根底にある概念:仁、君子、正しい社会規範への服従

『論語』で語られているのは道徳であり、自己と他者への礼節です。

ただし、現代人にとって好ましいと感じられる部分もあれば、必ずしもそうとは言えない部分もあります。

本記事では『論語』における3つのキーになっている用語から考えてみます。

具体的には、

  1. 君子
  2. 既存の社会規範への服従

です。

では、見てみましょう。

仁とは孔子の唱えた最高徳目で、肉親の間での自然な愛情から発した調和的な情感のことです。
欲望や我にまみれた状態は徳ではないため、節度ある振舞いが必要とされています。

仁について語っている『論語』のセンテンスを見てみましょう。

子曰、巧言令色、鮮矣仁、

先生がいわれた、「ことば上手の顔よしでは、ほとんど無いものだよ、仁の徳は」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p21

大変有名な一節ですね。

この場合、「ことば上手の顔よし」に仁が少ないのではなく、自らが「ことば上手の顔よし」であることを利用した振舞いには仁がない、と考えるのが分かりやすいかと思います。

その行為は自分の欲望に端を発するものであり、さらには誰かを利用する振舞いで調和的な行為でもありません。

たしかに自然な愛情が介する余地はなさそうです。

子曰、惟仁者能好人、能惡人、

先生がいわれた、「ただ仁の人だけが、(私心がないから、本当に)人を愛することができ、人を憎むことができる」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p70-71

このセンテンスを読んでいると、『仁』とは心の中に波風がない状態とも言えそうです。
余計なものに囚われていては心の内から愛憎そのものも濁ってしまうということなのでしょう。


以上2文を踏まえると、どうやら『仁』は現代社会においても意義深いと言っても良いでしょう。

君子

徳の習慣に励む人や、徳の出来上がった人を指します。
聡明で人格に優れた人物ということでしょう。

『論語』には君子とはかくあるべき、というセンテンスも数多く登場します。

子曰、君子不重則不威、學則不固、主忠信、無友不如己者、過則勿憚改、

先生はいわれた、「君子はおもおもしくなければ威厳がない。学問すれば頑固でなくなる。(まごころの徳である)忠と信とを第一にして、自分より劣ったものを友だちにはするな。あやまちがなければ、ぐずぐずせずに改めよ」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p25-26

忠義のある振舞いと威厳を保つことが重要と考えられていることが分かります。
徳高い人物には威厳が必要という感覚は、あまり現代的とは言えないかもしれません。

子曰、君子周而不比、小人比而不周、

先生がいわれた、「君子はひろく親しんで一部の人におもねることはしないが、小人(つまらない人)は一部でおもねりあって広く親しまない」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p42

こちらを読む限りでは、交友関係の広さや鷹揚な器の広さが要求されていることが分かります。
世界中の前近代的な社会において理想とされた「大物」像によく似ています。



どうやら『君子』は我々が考える聖人像ではなく、近代以前の首領/ボスとしての意味が含まれているようです。

既存の社会規範への服従

『論語』においては、社会の決まりや礼節を重んじ、従うことも重要とされました。
仁においては両親だけでなく、身分が上の人への誠実さが要求されています。

明確な時代差を感じる倫理観です。

ただ、『論語』には既存権威に好まれる側面があったからこそ、時の為政者達に気に入られ、2500年間強い影響力を保ち続けてきたのでしょう。

ここでもいくつか例を見てみましょう。

子曰、弟子入則孝、出則弟、謹而信、汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文、

先生がいわれた、「若ものよ。家庭では孝行、外では悌順、慎んで誠実にいしたうえ、だれでも広く愛して仁の人に親しめ。そのように実行してなお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ。」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p24

家庭に尽くし、外でも控えているように。
若者に対し、既存の権威に歯向かうことを諫めています。

子曰、父在觀其志、父沒觀其行、三年無改於父之道、可謂孝矣、

先生がいわれた、「父のあるうちはその人物の志しを観察し、父の死後では、その人物の行為を観察する。(死んでから)三年の間、父のやり方を改めないのは、孝行だといえる。」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p28

こちらも父親の権威をその死後3年は認めるように伝えています。
目上の考え方を尊重し、突飛な革新を諫めるような保守的な内容です。



『論語』には既存の権威を尊重するよう訴えかける内容が含まれていると言えます。
また、ここでは取り上げませんでしたが、時代上仕方ないとは言え、差別的な考え方に基づく文章も含まれていました。

上記3点のまとめ

先ほども述べたように、孔子は古き良き周代の道徳観についてアクセスしやすい環境にいました。
その中で腐敗した「今」を打破するために過去を重んじたのは、とても自然な流れだったと言えます。

そんな状況は現代社会と似ていますが、社会そのものの性質はあまりにも違いました。

そして、春秋戦国時代の中国においては、孔子の教えは多くの人々の救いとなったのでしょう。



また、孔子本人の叡智を感じさせる機知に富んだセンテンスも多くみられます。
ちょこっとだけ見てみましょう。

印象的な『論語』の言葉

最後に印象的な格言をピックアップしてみたいと思います。
ひょっとしたら現代を生きる我々にも響くかもしれません。

子曰、温故而知新、可以為師矣、

先生がいわれた、「古いことに習熟してさらに新しいことをわきまえてゆくなら人の師となれる」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p41

非常にシンプルですが、個人的には一番好きな言葉です。

知識も社会も、全ては様々な事柄の積み重ねで出来上がっています。
目先の派手な事象に囚われて世界認識を歪めては、誰かの役に立つことなどできません。



子曰、君子周而不則罔、思而不學則殆、

先生がいわれた、「学んでも考えなければ、(ものごと)ははっきりしない。考えても学ばなければ、(独断におちいって)危険である」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p42

これも良い言葉だと思います。
「自分の頭で」考えることの大切さを端的に表現しています。


子曰、不患人之不己知、患己無能也、

先生がいわれた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、自分に才能のないことを気にかけることだ。」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p291

余計な感情や自意識に振り回されずに、自分に足りていないものを見据えることの大切さを言い表しています。
これも大好きです。


子曰、過而不変、是謂過

先生がいわれた、「過ちをしても改めない。これを(本当の)過ちというのだ。」

金谷治訳注『論語』,岩波書店,1963,p318

ぐうの音も出ない正論、というやつでしょうね。

まとめ 『論語』とは 孔子と我々の間にあるもの

本記事では、現代でも通じる格言をピックアップしました。

しかし、個人的には、『論語』のテキストを全体として見た場合、現代社会における道徳観の教科書にはならないと思っています。
礼節や徳を考える際、立場の強い人への服従を強いている面があるからです。

差別的に映る文言も少なくありません。
前近代社会特有の互酬的倫理観も全文にわたって通底しています。

ただ、それだけでの理由で『論語』の全てを否定するのはやりすぎだと思うのです。

まず「適切」な部分は素直に吸収するべきでしょう。
それから『論語』のテキスト内で脈打つ「適切ではない」思想がなぜ生み出されたのか考察すれば、きっと多くのことが得られると思います。

『論語』は単なる道徳の教科書でもなければ、克服すべき過去の道徳でもありません。

対話し、理解すべき他者なのです。

テキストを読む行為は他者理解そのものであり、そもそも他者理解とは何なのかを思い出させてくれる一冊でした。


それでは。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です