日々思うこと。敬意を払うということ。

こんにちは。

2018年の12月にブログを書き始めました。

最初は夜の川に向かって石を投げ込んでいるような気分でしたが、最近ではほんの少しですが、反応をいただけるようになりました。

ありがとうございます。

ようやくブログの記事に反応がもらえるように。でも、その反面……という話。

批判に落ち込む

反応があるだけで、僕は世界から無視されていないというだけで本当に嬉しいです。
自分の記事でエゴサをするのがとても楽しかったです(たとえ反応がほんの少しでも)。
でも、反応には大雑把に分けると二種類ありました。
1つは、誉めてくれるもの。もう1つは、批判するもの。


批判はいつだってショックです。
いつも、結構がっつり落ち込みます。
でも、そのショックが去った後は、批判の種類に応じて僕の感情も様々な変化をします。

的外れだったり感情的な言葉だったりすれば腹が立ち、
納得できる意見だったら素直に頷けたし、
正論も含まれてるけど言い方が不愉快だったら、どうにかこうにかしぶしぶ納得し、
自己陶酔野郎のマウントに使われたらマジこいつぶん殴ってやろうかとか思ったり、
等々そんな感じです。

ただ、今僕が重要だと感じでいるのはそこでじゃないんです。
僕を批判をしようとした時の、彼等の思考のスタート地点なんです。

感情が乗った批判の特徴と分析

ある程度の長さがあって、なおかつ感情的な批判の文章を何度も読んでいるうちに、その全てに同じ傾向が見受けられることに気付きました。

彼等は僕が記事で触れていないアーティスト、ジャンル、音楽的背景などを僕が知らないと思っているんです。
僕は知らないなんて一言も言っていないのにも関わらず、対話をする前からもう決めつけているんです。

もちろん知っているものもあれば、知らないものもありました。
ただ、それはその記事には書かれていない。だから、彼等にはそんな判断が出来るはずがないんです。

僕の推測1 批判する人の思考パターン

ここから先は「おそらく」の話です。

おそらく彼等は、

僕の文章を見て少なからず不快になる→あいつは俺より頭が悪いと無意識のうちに判断する→マイナー音楽好き特有の知っている方が偉いという美意識が働く→僕は自分より音楽に詳しくないと決めつける→無知なやつが書いたらこの記事は駄目だ→だから俺は不快になった。

という思考の流れが働いているのではないでしょうか。
つまり、不快だと感じた相手は常に格下になるのです。

※念のため、別に僕を批判した人々に意趣返しをしたいわけではありません。

【本題】果たしてこれは音楽好きだけの文化か?


ここからが本題です。

僕の推測がある程度的を射ているのであれば、上述の思考パターンは僕達の心の極めて根深いところから発生しているものであり、日常生活につきまとうものということになります。
つまり、音楽以外の場面でも顕著な問題になっていると思うのです。

というか、音楽の話なんて別にどうでもいいことです。
世代でも、性差でも、国籍でも、民族でも、所属してる文化でも、
相手のことを不快に思った瞬間、相手は見下すべき格下になり、敬意を払わなくなってしまうのですから。


皆さん、そんな経験をしたことはありませんか?
正直に言います。僕はあります。


仮にたった1点であったとしても、許しがたい不快さがあったとしたら、その人の、ひいてはその人の背後にある国籍や文化の全てを不快に思ってしまう。
今思い出しても、僕は罪悪感にかられます。

そして、これは絶対に間違いのないことだと僕は確信をしているのですが、こんな思考の動きをするのは、僕や僕の記事に対して感情的に批判した人だけではないはずです。

そんな思考の動きを、僕達は当たり前のようにしているんです。

他者に敬意を払うことは、とてもとても難しい。

その認識がもう少し広まれば、もうちょっとだけ世界が生きやすい場所になる気がするのですが……。
甘いですかね。


それでは。

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