今日、なんとも微妙な気持ちになる記事を発見した。
それがこちらである。
https://gigazine.net/news/20210927-song-virus/
記事の内容は、音楽の流行と感染症の流行には類似した傾向がみられる、というものだ。
マクマスター大学の研究所に所属する研究者たちによる論文を記事にしたもの。
その感染症の伝播モデルというのが、
- 全人口を感染する可能性のある者(感受性保持者)、
- 感染者、
- 感染する可能性の低い者(免疫保持者)
へ分割し、時系列に応じてどのように感染が拡大していくかを確率計算で表したものらしい。
で、音楽もこれと同様に、
- 緊密なコミュニティで広がるとまず感受性の高い人が流行に飛びつき、
- そこの集団が使い果たされるとピークに達し、
- 減少し始めて流行が収束する、
という流れを辿ると予測を立てたうえで、2007年から2014年の間にNokiaの携帯電話からダウンロードされた曲で分析したらしい(データの鮮度が良くないのは指摘しておきたい)
で、人気上位の曲のうち90%近くが感染症の伝播モデルに合致したらしい。
まあ、ここまでなら、個人的には「そっかー……、似てるのか―……」で、終わるのだけれど、問題はこの後だった。
ギリスではポップスが最も人気な傾向があるにもかかわらずエレクトロニカ音楽の方が最も速く人気を博して普及しましたが、それはエレクトロニカのファンが「影響を受けやすいコミュニティ」であることが理由だと考えられるそうです。そのためエレクトロニカは「感染力が高い」ジャンルで、より短くより速い流行を経験するため、爆発的に人気が生まれるように観測されます。
https://gigazine.net/news/20210927-song-virus/
あー……。
なんか、もう、あー……、としか言いようがない。
本題に入る前に、重要な事柄を述べておきたい。
英語圏と日本語圏ではエレクトロニカの意味合いが異なる。
日本語圏のエレクトロニカの定義を述べるのは、正直めんどくさい。
色んな人の思いが、インターネットには迸っているからである。
いわゆるダンスミュージック的な側面とは違った電子音楽、しかも割と繊細な質感なものが多い。
と言う風に述べておくの無難だろうか。
中にはMassive Attackなどのトリップホップをエレクトロニカに含めることに抵抗を覚える人も多いようだ。
しかし、英語圏のエレクトロニカはもっと範囲が広い。
トリップホップだって含めるしChemical BrothersやMobyだって含める。
もう、全然違う。
つまり、日本のエレクトロニカは英語圏の文化からの受給に大きく依存しつつ、本場とは大きく異なる概念・文化を形成している。とも言える。
そして、そのいびつさはもっと自覚されるべきだと思う。
(以上の情報についての情報源はこちら)
http://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.885.3110&rep=rep1&type=pdf
http://subsol.c3.hu/subsol_2/contributors3/casconetext.html
以上は、大事ではあるが余談だった。
本題に入る。
あー……、と思ってしまったのは、
影響を受けやすいコミュニティとしてのエレクトロニカは、日本のエレクトロニカにも結構当てはまるというファーストインプレッションを受けたからだ(あくまでもファーストインプレッション)
そういう印象がすっと脳裏をよぎってしまったわけだ。
で、もっと最悪なのは、そのあと「ああ、でもこれをエレクトロニカでくくって考えるのはフェアじゃないな」
という言葉が浮かんだことだ。
日本語圏で垂れ流される思想や言葉、だいたいなこんな感じじゃない?
あっちに流され、こっちに流され、自分の都合の良い情報だけで精緻な箱庭を創りあげ、何かを論じているようで自分を守っているだけ。
そして、簡単に(自分にとって都合の良い)周りに流されていく。
自分の頭で考えるってことがどういう意味なのかを、捉え切れていない。
さらに問題なのが自分が周りに流される大衆という事実を認識できず、「自分は分かっている側」「自分は正しい側」という変な選民思想がこびりついていること。
(しかも、「正しい側」としての振る舞いと実際の振る舞いに生じている矛盾に全く気付いてなかったり)
自己評価と客観的な実力に、齟齬が生じている。
これは、その事実を指摘してあげられる社会構造が存在しないことに罪があるとは思うけど。
SNSの功罪の「罪」のほうだろう。自分に都合の良い情報が欲しがり、その結果どんどん思想が歪んでしまう。
(都合の良い情報というのは単純化された事実で、そういう需要がある以上それを満たす商品が世に回って、それがさらに思想の先鋭化を招き……なんて側面もある)
で、エレクトロニカに限らず日本語で世に出る思想にはそんな傾向が顕著なわけで。
あと、エレクトロニカに限らず音楽に関しては、そのジャンルの権威の意見に流されやすい傾向がある。
これは、個人的には事実をゆがめる考え方に他ならないように感じるのだけど……。
だいたいインタビューとかで、一人の人間が絶対に真実のみを話すわけでもないしょう。
普通に生きてりゃ誰だってごまかしたいこととか、反発したいこととかあるでしょう。
怒りや悲しみや先入観に捕らわれて、考え方が歪になってしまうほうが普通でしょう?
まあ、ミュージシャンが絶対唯一の神というなら話は別だけど。
など書いてて思った。
権威に流されやすい人たちにとっては、その権威は自分にとってご利益がありそうな神様を見繕って神棚に飾っているようなモノかもしれないね。
でもさ、モノゴトって複雑すぎるほと複雑なんだ。
細野晴臣はエレクトロニカを「商業主義に絶対に乗らない音楽」と評してるけど、
UCLAの教授はエレクトロニカがアンダーグラウンド精神を胸に秘めつつも商業化と共に発展していく過程(その過程を音楽の進化・劣化ではなく受容する社会側の変化と結び付けて論じているのは、さすが。ま、社会学だし)を抉出した論文を出してたり、
しかも、日本語圏と英語圏ではエレクトロニカの意味はかなり異なってる。
さて、エレクトロニカとは一体何なのでしょう?
自分は正しいと思いながら、自分に都合よく流されているだけ。
そんなコミュニティに囲まれながら生きて、老いて、死なねばならない。
でも、どうにか楽しく笑っていたいものです。
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