古代ローマの智将キケロ、老いと理不尽に敢然と立ち向かう。『老年について』

こんいちは。

紀元前文学第17回、今回は『老年について』についてです
カエサルらと鎬を削った政治家でもありギリシャ文化をローマに輸入した哲学者によるキケロによって、紀元前44年頃に書かれた書物です。

キケロの『老年について』についての概略 あらすじ

(0)主な登場人物

  • 大カトー 紀元前3世紀から2世紀にかけてのローマの政治家。84歳。
  • 小スキピオ 紀元前2世紀の軍人 カルタゴを滅ぼしたことが有名。
  • ラエリウス  小スキピオの友人にして部下。彼の右腕として活躍した。

(1)物語の始まり

物語の舞台は『老年について』が執筆された紀元前44年からおよそ100年前の紀元前150年、政治家大カトーの邸宅です。

多くの人は老いることを嫌悪しています。
しかし、84歳になる大カトーは平然としています。

小スキピオラエリウスはそのことを不思議に思い、理由を尋ねます。そして、大カトーは自分が老いの恐怖に捕らわれていない理由を応えます。
という設定のもと、大カトーがローマ、ギリシャ、ペルシャの偉人たちの例をふんだんに挙げながら語っているのが本書の内容です。

(2)大カトーの主張

作中で大カトーは「老年が惨めなものと思われる理由は4つ見い出される」と述べています。

  1. 公の活動から遠ざかる
  2. 体力が弱くなる
  3. ほとんどすべての快楽が奪いさられる。
  4. 死から遠く離れているわけではない

そして、それぞれについて考察しています。


1. 公の場から遠ざかる

年を取ると体力を要求される仕事は出来なくなることと、大カトーは認めます。
しかし、高名な人物が老年になってから知性を要求される局面で活躍した例を挙げ、深い見識で若者を導く様な仕事が出来ると主張します。
社会を船に喩え、そこには様々な役割があり、老人には老人の役割があるというのです。

老人は公の活動に預かっていないという者はまともな議論をしていない。それはちょうど、船を動かすにあたり、ある者はマストに登り、ある者は甲板を駆け回り、ある者は淦を汲みだしているのに、船尾で舵を握り舵取りをしている舵取りは、何もしていないと言うようなものである。

『老年について』岩波文庫,2004年,P24

また、次の世代のためになる行動をすることが重要とも述べています。

老人になると嫌われるという先人の詩を引用し、若者だろうと老人だろうと嫌われる者は嫌われるし、喜ばれるものは喜ばれると主張します。

嫌われる理由を老人であることに起因させるのではなく、常に新しいことを学び、周りから必要とされる人物であろうとしなくてはならないと言うのです。
そうすれば、公の場から遠ざかることはないというのが大カトーの主張です。


2. 体力が弱くなる

体力の低下についても、大カトーは公の場に関することと同じような回答をします。

大カトーは今自分が青年が持つほどの体力など必要ないと答えます。そして、それは若い時に牛や馬のような体力を望まなかったことと同じだと喩えます。
そして、人はそれぞれの年齢に応じた役割があり、それぞれ良いところがあります。例えば老人には巧みな弁舌や経験に基づく知性があるように。


そして、老いてからも節制や体力の維持に心掛けなくてはなりません。そして大カトー自身が健康であるのはそういった努力の積み重ねであるとも主張します。

しかし、努力だけではどうにもならず、やがては誰もが老いに捕らわれていくことも自然の摂理として受け入れなくてはなりません。

こうして人生は知らぬ間に少しずつ老いていく。突如壊れるのではなく、長い時間をかけて消え去っていくのである。

『老年について』岩波文庫,2004年,P41




3. ほとんどすべての快楽が奪いさられる。

食欲、娯楽欲、そして性欲。大カトーによればこれらの欲望は祖国への裏切り、敵との密談の温床であり、人の心に害をなす存在です。
その具体例として、かつて彼の部下ルーキウス宴会の席で娼婦にせがまれるまま死罪に問われて鎖に繋がれている男を斧で跳ねたことを挙げています。

老年は望む望まぬに関わらず欲望から遠ざけられてしまいます。
しかし、結果として欲望に捕らわれた暴走とも無縁であり、節制のある生活をストすことが出来るという逆転の発想を
大カトーはします。

快楽よりも友との交わりや会話を楽しむようになれるのです。もちろん老年においても欲望への渇望はあり、それを
大カトーは劇場の座席に喩えます。

激情の最前列で見る者は(中略)よりよく楽しむが、最後列の者だって楽しむ。同様に青年期は快楽を間近に見つめるのでおそらく喜びも大きいが、老年だってそれを遠くに眺めつつ、十分なだけ楽しむのだ。

『老年について』岩波文庫,2004年,P49


また、非常に長い頁を取って農業が老年にとっていかにすばらしい快楽になるかを語っています(蕎麦打ちにハマる定年を迎えた男性のようですね……)
そして、快楽との距離感を保ちながら日々を過ごすには若い頃からの肉体的・精神的な研鑽が重要であるとこの章でも主張しています。


4. 死から遠く離れているわけではない

死が傍に迫っているのは青年も老年も同じであるとまず主張します。
青年の方が死の危機に瀕する機会が多いというのです。
つまり、死との距離感に年齢は関係ないと主張します。

そのうえで、大カトーは死に臨むにあたって青年より老年の方が優れていると述べます。
何故なら老年の方が長く生き、多くのことを成してきたからです。

青年が生に望むことの多くを老年は成してきました。
老年は秋の実りのように長く生きた故に手にする美しい思い出を、その胸に秘めているのです。

青年が死ぬのは盛んな炎が多量の水で沈められるようなもの、一方老人が死ぬのは燃え尽きた火が何の力も加えずともひとりでに消えていくようなもの

『老年について』岩波文庫,2004年,P66

つまり、自然に死へと向かうことが出来るというわけです。
その上で、ソクラテスが述べた魂の不死性について信憑性があると述べます。
つまり、肉体が死した後、肉体から解放された魂は旅の宿から立ち去るように晴れやかな気持ちで旅去っていくのだと大カトーは主張します。



そして、物語は終わります。

キケロの『老年について』についての魅力 キケロの心象風景

キケロの苦悩と奮起

本書の魅力は、キケロという男性の心情を感じ取れることでしょう。

『老年について』を執筆した紀元前44年頃、キケロは共和制ローマの崩壊に巻き込まれて政界から追放され、妻とは離婚し、娘とも死別、さらには弟とも絶縁状態。キケロ自身も60歳を過ぎようとしていました。
そして、そんな状況を振り払いたかったのか、キケロは学問に没頭していきます。

本書にはそんな彼の自己肯定ともとれる言葉が多く登場します。

青年を教え諭す役割が老人にはあるということを何度か主張していることがその好例でしょう。
若さを失い体力や快楽を奪われても、若い者より深い知性によって尊敬をされなくてはならない。
そして、自分にはそれに相応しい知性があるという強い自負が感じられます。

政界から追放、周りから人がいなくなってしまう孤独、徐々に老いゆく身体等々……といった不安に日々苛まれていたのでしょう。
その裏返しともいうべきマッチョな自己肯定が印象的です。

学問を学ぶには暇のある老人ほど素晴らしい立場はないという主張や、
より深い知性を必要とされる判断力は老年にこそふさわしいという考えが度々述べられます。

そして、そんな境地に至るためには若い頃からの積み重ねが重要であるとも何度も述べられます。
経験の積み重ねがなければ、敬意を払われる老人にはならないという主張も頻発します。

言葉で自己弁護をしなければならないような老年は非常に惨めだ。

『老年について』岩波文庫,2004年,P61

しかしながら、本書がまさに「自分は立派な生き方をしてきた」という自己弁護であるようにも感じられます。

生きてきたことに不満を覚えるものではない。無駄に生まれてきたと考えずに済むような生き方をしてきたからな。

『老年について』岩波文庫,2004年,P76

華々しく活躍していた過去に囚われながらの力強い現状肯定。
そんな理論的に矛盾している点も多々出てくるのも本書の魅力でしょう。

アジアの紀元前文学との類似と相違

比較的近い時代に成立したアジアの文学作品との比較も非常に興味深いものがあります。

例えば、本作では老いや欲望に対して無理に抵抗をしない。というスタンスが貫かれています。
あるがままの自然な状態を受け入れる、という点ですね。

そして、中国の『荘子:内篇』インドの『バガヴァッド・ギーター』は非常に似た思想感を持っています。
三作とも欲望に捕らわれていてはいけないと繰り返し述べています。


一方、『老年について』が社会への貢献を重要なことと考えているのに対し、『荘子:内篇』や『バガヴァッド・ギーター』はそれぞれ微妙に異なる部分があります。


1.『荘子:内篇』との比較

過激なまでに世俗と距離を置く『荘子:内篇』は、社会での成功に一切の意味を見い出していません。
いわば『老年について』についてで重要視さえる社会への貢献の一切を、エゴや欲望に捕らわれた無意味なものとしています。

2. 『バガヴァッド・ギーター』との比較


『バガヴァッド・ギーター』は、社会から与えられた義務(ダルマ)を成すことが重要視されています。
「成すべきことを成す」という観点からすると『老年について』と似ています。
しかし、『老年について』が社会への貢献という基準からその行為の結果を重視しているのに対し、『バガヴァッド・ギーター』においてはその義務(ダルマ)を無心で行うことによって心の平穏がもたらされると考えられています。



3. 『ヨブ記』との比較

後に欧米における聖典の一部になるイスラエル圏の『ヨブ記』との対比も面白いです。

『ヨブ記』の世界は、苦悩は正しく神を敬えば解決されるという『老年について』とはあまりにも異なるイデオロギーに支配されています。
地理的にはアジア地域よりも近いのに、内容があまりにも離れています。




しかし、中世以降にキリスト教がヨーロッパの宗教になるにつれて文学作品もその影響を受け、『ヨブ記』と似た一神教的価値観に染まっていきます。
そして、アジアとヨーロッパは異なる価値観を育むようになっていきます。

カエサルとの比較

共にラテン文学の名手と呼ばれるカエサル作品との比較もすごく面白いです。
カエサルは自身に満ち溢れた振る舞いをしながら順調にキャリアを重ね、最終的にはローマの頂点に君臨します。皇帝(カイザー)の語源になっていることはまりにも有名です。

そんなカエサルが書いた最高傑作『ガリア戦記』には、カエサルの野望と輝かしい自信がとても素直に書かれています。
自分の成果を語る文章からは翻訳を通してでも、書いている時のカエサルのドヤ顔が伝わってくるようです。


一方、キケロはカエサルに政略争いで敗北し、政界から遠ざかっているときに『老年について』を書いています。
そこからは自分が舐めている辛酸をどうにか肯定しようとする苦々しさに満ち溢れています。


光と影、この対比は非常に印象的です。

結び 『老年について』とキケロのその後

『老年について』を執筆した直後、カエサルが暗殺されます。
そして、反カエサル的な立場を取るキケロにとっても、暗殺はあまりにも稚拙な行動でした。
怒りの発作に捕らわれたキケロは、自分のために『老年について』をもっと自分自身で読まなくてはならないと書き残しています。

その後、政界に復帰をするチャンスを得ましたが、アントニウスとオクタウィアヌスの政略争いの中で立ち位置を誤り、再び失脚してしまいます。
指示をしていたアントニウスがオクタウィアヌスとの間に三頭政治が始まったことにより、アントニウスから見捨てられてしまったのです。

そして、キケロ自身も暗殺されてしまいます。彼の首と右手はローマで晒されました。

老いてなお理不尽に翻弄され続けた人生だったと言えるでしょう。
キケロは自分の人生をどんな風に捉えているのでしょうか。
『老年について』に記されているような努力の成果が実った人生だったと考えているのでしょうか。



それでは。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です