こんにちは。
紀元前文学、第三十回は『バッカイ』です。
ギリシャ悲劇三大詩人の一人エウリーピデースが残した作品であり、神を敬わない人々に訪れる悲劇を描いています。
成立年代は紀元前407年頃、エウリーピデースの晩年作と考えられています。
※なお、ギリシャ悲劇の形式などについては『オイディプス王』の記事で触れています。

『バッカイ』のあらすじ
主な登場人物
- ディオニューソス 豊穣、葡萄、酩酊の神。大神ゼウスの息子。
- ペンテウス テーバイの支配者。
- バッカイたち 狂乱している女たち。ディオニューソスの手によってかかる。
- アガウエー ペンテウスの母。バッカイの統率者の一人でもある。
- カドモス 先代のテーバイ王。ペンテウスの父。
1.ディオニューソスの帰還
物語は世界中を旅した神ディオニューソスが人間の姿に化け、生まれ故郷のテーバイに戻ったところから始まります。
ディオニューソスは大神ゼウスとテーバイ王家の娘セメレーとの間に生まれた子です。しかし、ヘラにそそのかされて「本当の姿を見せてほしい」ゼウスにせがんだせいで、ゼウスの雷霆によって焼き殺されています。
セメレーの姉妹アガウエーは「セメレーの本当の相手は人間だったはずにゼウスとの子であると嘘をついている」といった趣旨のことを言いふらし続けていました。
その件について怒っていたディオニューソスはテーバイの女たちに一人残らず狂気を浴びせかけます。正気を失った彼女たちは、小鹿の皮を身にまとい、テュルソス(木ヅタを撒いた槍)を手に持ちます。そして、家から飛び出し、山を住処とするようになりました。彼女たちが正気を失った女バッカイです。
また、ディオニューソスはテーバイがまだ自分を神と認めず、自らの祭りに対しての貢ぎ物を怠っていることを怒っていました。
ディオニューソス この国は否応なしに肝に銘じなくてはならない、いまだに私の祭、バッコスの祭に貢ぎ物を怠っていることを。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.49
2.ペンテウスの拒絶
しかし、王位についているペンテウスは、新参の神であるディオニューソスのことなど見向きもしません。
一方、テーバイの先代王カドモスの館へ、予言者テイレシアス(『オイディプス王』に登場します)が訪れます。
二人は高齢の身で儀式の踊りに参加することに心配を覚えつつも、子鹿の皮をかぶり、神たるディオニューソスのために参加することを決意します。
しかし、丁度外出先から戻ってきたペンテウスは断固拒否します。怪しい外国人が神を名乗って、だました女たちと情事に耽っているだけと考えているのです。ペンテウスは女たちを狂気に陥れた張本人を討ち取ろうとさえ考えていました。
テイレシアースとカドモスはペンテウスに対して、神に歯向かうことの愚かさを伝えます。
テイレシアース ところが貴君はあたかも良識あるがごとく、よく回る舌をお持ちであるが、しかるにその論述には良識を欠いておられる。そのような男は理性を持たず、結局、悪しき市民たる自分を露呈することとなる。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.44
彼等の言葉が痛いところをついたド正論だったせいかは定かではありませんが、傲慢なペンテウスは聴く耳を持ちません。
それどころか儀式に参加しようと手を伸ばす実の祖父であるカドモスに対して「触らないでください」という強烈な否定の言葉を浴びせます。
ペンテウス (中略)あなたがよそでバッコスにかぶれるのは勝手です。しかし、あなたの馬鹿な病を、私にまでうつすのは止してください。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.49
さらにはペンテウスはディオニューソスを石打の刑に処してやると言い放ちます。
結局、彼等は分かり合えないままでした。
テイレシアースとカドモスは祭りに参加するべくバッカイたちのいる山へ、
ペンテウスは自らの屋敷に向かいます。
3.ディオニューソスとペンテウスの邂逅
ペンテウスは家臣たちはディオニューソスと一部のバッカイを捕まえさせ、自分の下へと連れてこさせます。
家臣は、
- ディオニューソスが一切抵抗しなかったことを報告し、
- 捕まえていたバッカイたちが牢から消えてしまったこと
も併せて報告します。
ペンテウスは女受けの良い美男子であるディオニューソスが女をたぶらかしに来たのではないかとなじり、身分素性を白状するように脅迫します。
ディオニューソスは自らをディオニューソスが使わせた御子(人間の姿に化けていますので)と言い返します。
ペンテウスはディオニューソスを神と認めないどころか厩舎に放り込むこんでしまいました。
4.ディオニューソスの権能
しかし、ディオニューソスは縛られることは有りませんでした。
なぜなら、ペンテウスの家臣に幻術をかけ、牛をディオニューソスと思い込ませて縛らせていたからです。
そして、ディオニューソスは厩舎から抜け出し、館の屋上に立ち、雄たけびを上げます。さらには地震の女神に呼びかけたことにより地響きが巻き起こり、屋敷が倒壊します。
さらにペンテウスに幻術をかけ、ディオニューソスの幻を見せます。
ペンテウスは幾度となく切りかかるも、やがて本人ではないと気づき、深い徒労感に沈みます。
そして、今度は本物のディオニューソスを発見し、怒り心頭になります。しかし、ディオニューソスは余裕の態度で向かい合います。
たとえ(ペンテウスが)気負ってこようとも、私は平然とこらえてやるとしよう。分別を持って自制する、その訓練こそ賢い者のとるべきところだから。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.71
5.狂乱のバッカイ
ディオニューソスが軽くペンテウスをいなしていると、家臣が山から戻ってきます。
そして、山奥で暮らしているバッカイたちの様子を報告します。彼女たちはアガウエーらを統率者としていました。
身を包む小鹿の皮を整え、
蛇を身体に巻きつけ、
頭には蔦や花の冠をつけ、
赤子を家に捨ててきた者は狼や鹿の子を抱え、
さらにはテュルソスを地面に叩きつけるとそこから水が噴き出し。
バッカイたちは、あまりにも日常から外れた振る舞いをしていました。
家臣たちは王の母アガウエーを取り返そうと、身を潜めて見張っていました。
しかし、近くを通りかかったアガウエーに家臣たちは見つかってしまいます。
家臣たちは何とかバッカイたちを撒くことに成功しますが、彼等は驚愕の光景を見にすることになりました。
なんとバッカイたちが素手で子牛を投げ飛ばし、引き裂き、生肉を喰らっていたのです。
さらにバッカイたちは近隣の村々を略奪します。
驚くべきことに、抵抗する男たちの武器は彼女たちを傷つけることができませんでした。
女の頬の血糊は 蛇が舌で拭って、肌に輝きを与えた。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.80
6.ペンテウスの欲望と心変わり
ペンテウスは怒りに駆られ、バッカイに復讐を決意します。
しかし、ディオニューソスの一言であっさりと態度を変えてしまったのです。
あなたは女たちが山中で並んで腰かけているところを見たくないのですか?
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.83
欲望を掻き立てられたペンテウスは驚くほどあっさりとディオニューソスの言葉に従うようになります。
長髪のカツラや女性の服、バッカイらしい小鹿の皮を恥ずかしがりながらも素直に着込み、山へと向かっていきます。
山に着いたペンテウスは物陰からバッカイたちを見ようとしますが、上手く視界に収めることが出来ません。
近くにある木に登って枝に腰掛ければ見えるとペンテウスは思いつき、ディオニューソスに伝えます。
すると、ディオニューソスは素手で木の幹を地面に向かって平行に押し倒し、その枝にペンテウスを載せます。
そして、ディオニューソスが手を離すと木は再び地面に対して垂直に戻ります。
しかし、ペンテウスの思惑通りにはことは進みませんでした。
なぜなら、ペンテウスの姿はバッカイたちから丸見えになってしまったのです。
そのうえ同時に、天空からペンテウスの殺害を命じる声が響き渡ります。
娘たちよ、おまえたちと、私と、我が祭りとを哄笑している男を連れてきた。よし復讐にかかれ。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.104
天地では火柱がとどろいたあと、静寂が訪れます。
それから、アガウエーを筆頭にしてバッカイたちはいっせいにペンテウスに襲い掛かりました。
ペンテウス 母さん、私です。あなたのこども、ペンテウスです。あなたがエキーオーンで産んだ息子です。ああ、母さん、哀れんでください。私の失策のせいで、自分の息子を殺さないでください。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.107
と、ペンテウスは訴えかけますが、アガウエーたちは聴く耳を持ちません。
そして、生きたまま肉を引きちぎり続け、絶命させました。

身体を引き裂かれるペンテウス。
7.悲劇の結末
ペンテウスの首を獅子の首と(ディオニューソスの幻術のせいで)勘違いしたアガウエーは祖父に喜んでもらおうと思ってカドモスの屋敷へと持ち帰ります。
アガウエーは無邪気に誇り高き戦果を報告しますが、カドモスは冷静さを保ちつつも深く悲しみます。
カドモス 何という災いだ。一番不幸なのはお前だが、次は私だ。
『バッカイ バッコスにかぶれた女たち』エウリーピデーズ,逸身喜一郎訳、岩波書店,2013,P.117~118
神が我々を滅ぼしたのは正当だろう。しかし、余りにも度が過ぎる。
最初、アガウエーはなぜカドモスが悲しんでいるのか理解できませんでした。
しかし、カドモスの冷静な問いかけによって、自分の手にあるのは獅子の首ではなく我が子のそれと気づき、強い衝撃を受けます。
カドモスは神であるディオニューソスを敬わなかったから、自分たちは罰を受けることになったのだろうと理解します。
そして、カドモスとアガウエーたちはテーバイを追放になり、悲嘆に沈みながら旅立っていきました。
『バッカイ』の魅力・特徴
グロテスクな死の描写
ペンテウスは生きたまま身体の肉を引きちぎられ、骨を晒し、呻き続けながら死んでいきます。
さらにバッカイたちは手から血を滴らせながらペンテウスの肉片を毬のように投げ合っていました。
穏やかな山の光景のそこかしこに、かつてはペンテウスだった何か飛び散っていたようです。
死や殺しが今よりも身近だった古代の作品においては、現代人にとっては残酷な現実が淡々と描かれることは多々あります(『オデュッセイア』などが良い例でしょう)。
ただし、『バッカイ』におけるペンテウスの死は余りにも惨く、現実的というよりも漫画的なフィクションに近いものがあるように思います。
推理映画のような死というよりもホラー映画のような死に近いというべきでしょうか。
運命・神の無慈悲な一面を強調するために、そして悲劇の悲劇たる所以を強調するために残虐な末路を用意したのかもしれません。
何にせよ、『バッカイ』を読み終えたあとには、その異様なシーンが強く印象に残っていることでしょう。
他者としてのバッカイたち
バッカイの存在感も見逃すことはできないでしょう。
小鹿の皮生きた蛇、
木ヅタの冠を身にまとった姿、
手で牛や人間を引き裂く凄まじい膂力とユーフォリア的な狂気。
彼女たちは通常の人間よりも自然に近い存在と言えるかもしれません。凪いだようなたおやかさと荒れ狂う暴風を兼ね備えています。
また、彼女たちは古代ギリシャが男性優位であったことを端的に表現している存在なのかもしれません。
物語においてバッカイは異様な存在感を放ってはいます。
しかし、話の軸になるのは男性であるペンテウスの愚かさとそれがもたらす悲劇的な結末です。
議論を通して倫理観を語るのも男性です。
バッカイは鮮烈な際物であれど、主体的に話を動かす要因ではないのです。
また、バッカイは極端に穏やかであったり極端に狂気的であったりするのも特徴です。
男性たちが現実味で普通な人物として描かれているのに対し、バッカイの性格は極めて過剰とも言い換えられます。
自分と異なるものを描写するときは人物像の深みが薄くなるのは現代の作品でも顕著に見られる傾向です。
(男性が描く女性、女性が描く男性などは濃淡に差があれどほぼ当てはまります)
もしも、女性が主体的に創作に参加できる土壌があれば、バッカイたちの在り方は現在まで残されているものとは異なっていたかもしれません。
現代での需要
ただ、現代においては女性作家の注目を集めているようで戯曲や舞台になっていることが多いようです。
そういった創造をする女性たちにとっては、バッカイが社会の規律から逸脱した存在であり、優位な立場にいる男性を圧倒的かつ残虐に殺しているところに響くところがあるからなのかもしれません。
ただ、彼女たちをバッカイにしたのは男神ディオニューソスであり、その理由は彼の母を貶めたアガウエーへの復讐であり、自らを信奉しないテーバイの人々への復讐です。
バッカイたちは本来的には能動的な行動・決断をしない存在に過ぎません。
また、男性から見た他者ゆえの幻想を押し付けられた存在とも言えるかもしれません。そういった意味では、少年漫画のヒロインのようとも考えられます。
つまり、バッカイたちは男神ディオニューソスにとって、
さらにいえば男性作家エウリーピデースにとって、
非常に都合の良い存在なのです。
現代の作家が過去に題材を求めて現代の問題に切り込もうとするとき、「いびつな」素材の使い方をせざるを得ないところに、長い間人類が抱えてきた不条理と理不尽の一端が垣間見えるように思います。
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