こんにちは。
紀元前文学 第26回目は西洋哲学の礎を築いたプラトンの著書『ソクラテスの弁明』です。
プラトンの師ソクラテスが身に覚えのない「不敬罪」の罪状で訴えられた裁判でのやりとりを文学作品としてまとめたものであり、ヨーロッパ社会はもちろん世界各国で長く読み伝えられている哲学書でもあります。
成立年代は紀元前393年、プラトンが34歳だったときのことと考えられています。

『ソラクテスの弁明』の背景について ~著者プラトンやその師ソクラテス、そして裁判~
内容に入る前に、『ソクラテスの弁明』の背景について触れましょう。
何故なら背景にまつわる史料が多く残されているからです。
『ソクラテスの弁明』に関する胸が躍る情報が残されているなら触れないなんて大損です。
さすが黄金時代のアテナイ、さすが知恵の巨星プラトンといったところでしょうか。
著者プラトンについて
プラトン、という名前を耳にした記憶がある方も多いはずです。
プラトンの思想と彼が残した多くの著書は西洋思想の礎となり、やがては世界中の思想――ひいては我々の考え方――に大きな影響を与えています。
プラトンは紀元前427年、アテナイ市民として生を受けます。
古代ギリシアの二大勢力といってもよいアテナイとスパルタが覇を競い合ったペロポネソス戦争が始まったばかりの時期でした。
そして、プラトンは名門の家系に生まれるという幸運にも恵まれ、資産を運用して生計を立てていたようです。
しかも、若いころは立派な体躯を駆使してレスリングでも名を馳せていたようです。
いわゆる文武両道というやつだったのでしょう。
周囲からは政治へと深く関わることを周囲から期待されていたようですが、ペロポネソス戦争末期(スパルタとの戦争)などの衆愚政治を目の当たりにして、政治とは距離を置きたがっていたようです。
だからこそ、12歳のころに出会った哲学者たるソクラテスに深く傾倒していたのかもしれません。
哲学者ソクラテス
ギリシア側のペルシアに対する勝利から10年後、ソクラテスはアテナイで生まれました。
栄華を極めた民主制度のもとでソクラテスは青壮年期を過ごし、アテナイがペロポネソス戦争に敗戦したころには広く名を知られる知識人になっていました。
しかし、現代の哲学者のように教鞭をとって収入を得ていたわけではありません。
あくまでも石工としての職業を持ちつつ、妻や子供たちとの生活を営んでいました。
暇を見つけては街角で「徳」を巡って対話をしばしばしていたようです。
そして、それは大きな評判を呼びました。
プラトンはもちろんのこと、のちに傭兵団長としてペルシアを転戦していたクセノポンなど多くの弟子たちを抱えていたようです。
良くも悪くも人々の注目を集めることになり70歳の春に不敬神罪で告発され、裁判に臨むことになります。
古代アテナイでの裁判
古代アテナイでは告訴状の役所への提出と事前審査を経たうえで、以下の流れで行われました。
- 告発人による告発
- 被告人による弁明
- くじ引きで選ばれた裁判員(500或いは501人)による二度の投票判決
- (1度目の判決)有罪or無罪
- (2度目の判決)有罪の場合は双方が申し出た刑罰(刑の重さ)について判決
以上が、屋外の広場で一日で行われたそうです。
告発人及び被告人は演台に立ち、制限時間内で肉声で発言をしたそうです。(弁護士や検事はいませんでした)
70歳のソクラテスには辛い裁判であったに違いありません。
そして、裁判の結果、ソクラテスは死刑に処されることになります。
『ソクラテスの弁明』について
ソクラテスの死から6年後の紀元前393年、その有罪・死刑を正当化するパンフレットが書かれたそうです。
『ソクラテスの弁明』はその時期に書かれたと考えられています。
パンフレットに対する反駁の意図があったのでしょう。
『ソクラテスの弁明』はソクラテスの裁判という現実に起きたことが描かれています。
ただし、文学的な体裁が細部にわたって緻密に整えられています。
事実そのままを描いたというだけでなく、プラトンが世に問いたい哲学的問いかけが注ぎ込まれた作品であると考えるべきでしょう。
「ソクラテスの弁明」のあらすじ
0.物語の構造と主な登場人物
物語は裁判の間、長く語られるソクラテスの弁明を軸に進んでいきます。
また、時折ソクラテスに一方的に言い負かされる形で告発人の代表者である若き詩人メレトスが登場します。
主な登場人物としては上記2名になるでしょう。
物語の構造としては、裁判の進行に沿って主に3部に分類されています。
- (ソクラテスによる)告発への弁明
- (ソクラテスによる) 刑罰の提案
- (ソクラテスによる) 判決後のコメント
では、順番にあらすじを見ていきましょう。
1. (ソクラテスによる) 告発への弁明
物語は裁判の途中である被告人による弁明から――つまり、ソクラテスの弁明から――幕を開けます。
ソクラテスは、
- さきほどまで行われていた告発者たちの言葉が真実でないこと、
- 自分は美辞麗句を用いず率直な言葉で真実を語ること、
- 70歳になって初めて法廷に登場したため不慣れなことも多いが気にしないでほしいこと、
等を語ります。
続けて、目の前にいるのはメレトスたちは「新しい告発者」であり、彼等をこのような告発へと突き動かしたのは「古い告発者」であると述べます。
そして、まずは「古い告発者」への弁明を開始します。
「古い告発者」の正体
「古い告発者」とは誰なのか?
それは長い時間をかけて、新しい告発者が提出した起訴状に書かれている「ソクラテスは不正を犯し、余計なことをしている。地下と天球のことを探求し、弱論を強弁し、またまさにその類のことを他の人に教えることで(要するに頭の良い人)」というイメージを醸成した人々のことだとソクラテスは指摘します。
ソクラテスは丹念にその過程を解きほぐすように語ります。
まずソクラテスは観客席に向かって起訴状に書かれているような内容を自分が語っているのを聞いたことがある人はいるかと尋ねました。
誰も一人手をあげませんでした。
続けて、ソクラテスは自分は何かを取ってお金を教えたことはないと宣言します。
そして、自分の知恵は人間という神に比べて卑小な存在の身の丈にあったものであり、お金を取って教えられる「知者」たちとは違うとも伝えます。
あるとき、ソクラテスの弟子カイレフォンがデルフォイの巫女から「ソクラテスより知恵のある者は誰もいない」という信託を受けます。
自分を知恵のある者と認識していなかったソクラテスはその信託を疑問に思い、真実かを試そうとしました。様々な知恵あるとされている人々のところに赴き、会話を交わしました。しかし、彼等は自分で知恵ある者と思い込んで入れるけれど、ソクラテスよりも賢いと思えなかったのです。
なぜならソクラテスは、自分は全てを知らないことを知っているからです。
その一点において自分のほうが優れているようにソクラテスには思えたようです。
そして、ソクラテスは一つの結論に達しました。
「私はこのままの状態でいるほうが良いのだ」
プラトン『ソクラテスの弁明』納富信留訳,光文社,P.36
そして、あちこちに対話をしにいった過程でソクラテスに関する敵意が生まれました。
おそらく相手の癇に障るような言い方もしたのでしょう。
さらにソクラテスに教え子たちがそこかしこでソクラテスと同じようなことを行ったことも輪をかけたようです。
そんなことがあって徐々に「ソクラテスは不正を犯し、余計なことをしている」という評判が出来上がりました。
姿なき「古い告発者」の誕生です。
そして、この実体のない「古い告発者」を盲信し、突き動かされるように 若く新しい告発者メレトスたちが裁判へと踏み切ったのです。
「新しい告発者」の矛盾
ソクラテスは続けて新しい告発者メレトスへの弁明(というか論戦)を仕掛けます。
メレトスによる非難は「ソクラテスは不正を犯している。若者を堕落させ、かつ、ポリスが信じる神々を信じず、別の奇妙な神霊(ダイモーン)のようなものを信ずるがゆえに。」というものでした。
メレトスに「ソクラテスは意図的に若者を堕落させている」と認めさせたうえで、さらに「自分と暮らす者をあえて堕落させる者はいない。何故なら堕落した者は自分の害を与える」という命題も認めさせ、その矛盾を指摘します。
そして、ソクラテスに課せられた罪である「不敬神罪」への反論に取り掛かります。
まずソクラテスは「別の奇妙な 神霊(ダイモーン)のようなもの 」を信じています。この 神霊(ダイモーン) は正確な定義は難しい、マイナーな神のような存在だそうです。
そして、メレトスはソクラテスに誘導されるようにして、「あなたはまったく神々を信じていない、と主張する」と言わされてしまいます。
ここで再びメレトスの理屈に矛盾が生じます。神々を信じていないのにマイナーな神である神霊を信じているというのはおかしいわけです。
神々を信じていないのに、一部の神々を信じている。
メレトスによる起訴状には完全に矛盾する命題が含まれているのであり、ソクラテスはそれを率直な表現に言い換えることで強烈に揶揄しました。
「ソクラテスは不正をなしている。神々を信じず、神々を信じているがゆえに」
プラトン『ソクラテスの弁明』納富信留訳,光文社,P.52
ソクラテスはメレトスの控訴状を若気の至りとさえ喝破しました。
哲学者としての生
そして、最後にソクラテスは哲学者としての生について語ります。
仮想の人物に「恥ずかしくないのかね? 今にも死ぬかもしれない、そんな危険な仕事を生業にしておいて」とソクラテスへの問いを発させます。
ソクラテスは、『イリアス』の主役もでありトロイア戦争で親友パトロクロスの仇ヘクトルを討つために死をも恐れなかったアキレウスを例として、最善と判断したら死をも恐れぬ行動をとるべきのが善い行動であると主張しました。
その後、ソクラテスは今までの政治的振る舞いの正当性を主張したり、ポリスにおける自分の優等生を一通り主張したあと、弁論を終えました。
裁判員による評決が行われ、僅差ながらもソクラテスは有罪になりました。
メレトス側からは「死刑」の提案が行われました。
それに対して、ソクラテス側は別の刑を提案することになるのですが……。
2.(ソクラテスによる) 刑罰の提案
ソクラテスは裁判員を挑発するような言動を繰り返します。
メレトスの関係では自分はもう無罪放免になっている――つまり完全勝利――と言ってみせたり、
罪としてアテナイの会堂で食事を饗応される権利を主張したり。
その後も様々な刑の可能性を考慮します。
そして、最も生き残る可能性が高い追放刑についても検討しますが、どこに行っても自分は同じようにこんな目に合うと述べます。
要するに自分の在り方や生き方を曲げるつもりはないのでしょう。
そして、最後に罰金刑を申し出ます。
1ムナという金額を提示しますが、当時の感覚としては非常に少ない金額だったそうです。
著者プラトンをはじめ弟子や仲間たちが慌てて集まり、30ムナまで値段を吊り上げることにしました。
しかし、ソクラテスの言動は明らかに裁判員を逆なでするものだったのでしょう。
その後の裁判員の判決では死刑票が大きく上回ることになりました。
3.(ソクラテスによる) 判決後のコメント
裁判後、どうやら壇上からコメントをする時間がソクラテスに与えられたようです。
裁判員たちに「お前たちが、知者ソクラテスを殺したのだ」という汚名と責任が帰されるだろうと宣言します。
続けて、ソクラテスは有罪投票をした人に対して予言をします。
ソクラテスを殺したことによって、彼等の生きざまは若者たちから厳しい「吟味」にさらされるだろうというものです。
さらにソクラテスは彼等に対して不満を持っていた若者たちのことを自分が懸命に抑え込んでいたことを明らかにします。
自分がいなくなれば彼等の勢いは増すであろうとも予言します。
そして、最後に自分が迎える死についても大いなる希望があると述べます。
死は深い眠りのように何もないか、あるいはどこか別の場所に行く過程か、そのどちらかだと当時は考えられていたようです。
深い眠りのような感覚であれば、死は得だと主張します。
また、どこか別の場所に移動し、やがては冥界で過ごすとしても神話の世界の人物や偉大な英雄と語らうのは楽しみであると主張します。
最後に自分の息子たちについての頼みごとを聴衆にします。
ソクラテスが人々に取ったのと同じような態度で、(つまり真理を探究し、よく生きる)子供たちを苦しめてほしいことと、調子に乗っていたら鼻っ柱を追ってほしいことです。
互いにチェックしあいながら生きてほしいということでしょう。
そうすれば双方が正しい報いを受け取れるとソクラテスは主張します。
そして、下記のような最後の言葉を残し、『ソクラテスの弁明』は幕を閉じます。
「ですが、もう去るときです。私は死ぬべく、あなた方は生きるべく。私たちのどちらがより善き運命に赴くのかは、誰にも明らかではありません。神は別として」
プラトン『ソクラテスの弁明』納富信留訳,光文社,P.106
『ソクラテスの弁明』の魅力
無知の知について
やはり、有名なワードである「無知の知」への言及があるのは見逃せない特徴です。
とはいえ、「無知の知」という言葉そのものでは登場しません。
自分は「知らないと思っている」という遠回しな表現になっています。
「知っている」というのは積極的に探究しなければたどり着けない境地であり、ソクラテスは自身に対してそう簡単には使わないようです。
さて、本題に入りましょう。
ことの始まりは、デルフォイでの「ソクラテスより知恵ある者は、誰もいない」ろいう神託でした。
この言葉はソクラテスにとって衝撃だったようです。
神は、一体何をおっしゃっているのだろう。何の謎かけをしておられるのだろう。私は、知恵ある者であるとは、自分では少しも意識していないのに。
プラトン『ソクラテスの弁明』納富信留訳,光文社,P.30
絶対の権威であった神託が、自分の認識とは全く違う事実を投げかけたのです。
ソクラテスはその神託が正しいのか、「吟味」することを決意します。
そして、賢いとされる人々と対話を重ねていきました。
しかし、それらの人々には知恵があるようにはソクラテスには思えませんでした。
彼等は自分のことを賢いとは思っているようですが、ソクラテスの認識は違いました。彼等は賢いとは思えなかった。
そこからソクラテスは自分が知恵に対してどう向き合っているのかを突き詰めて考えていきます。
そして、一つの結論に達します。
私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っている
プラトン『ソクラテスの弁明』納富信留訳,光文社,P.32
知らないということを謙虚に認識することが、ソクラテスにとって非常に重要だったようです。
神託への「吟味」は、ストイックな自己探求だったともいえるでしょう。
ただし、結果的にはソクラテスに対する誤った評判を広めた要因になりました。
現代でもそうですが、正論は必ずしも人を動かしません。
ましてや、それが相手のメンツを傷つけるものならなおさらです。
アテナイの裁判について
民主制の始祖のような扱いを受けることも多いアテナイですが、やはり人が集まれば感情的に流されてしまうのは時代も場所も関係ないようです。
裁判員たちはおそらくソクラテスにメンツを傷つけられたという思いを抱えていたのでしょう。
その結果、ソクラテスがどれだけ見事な弁明をしても、過半数はその意見を変えないわけです。
さらには、ソクラテスの神経を逆なでする弁論にも見事に流されて大半が死刑票を入れてしまうようなことも起きるのです。
冷静に事実を見ようという感覚は備わっていなかったように感じられます。
大切なのは、事実ではなく自分の感情なのでしょう。
弁舌巧みな輩に流されて右往左往、2000年以上経った日本でもよく見られる光景です。
結びに代えて 『ソクラテスの弁明』と死
判決が出た一月後に、ソクラテス後は服毒により死刑に処されます。
ソクラテスが70歳、プラトンが28歳の時の出来事でした。
その影響はプラトンにとって大きかったでしょう。
政治的な名家な生まれだったのにも関わらず、政治には深く関わることはありませんでした。
そして、後にアカデメイアという研究教育機関を創設し、長らく執筆活動に励むことになります。
偉大な書物の数々は後の時代の人々に高く評価され、プラトンの作とされている書物は全て現代まで現存しています。
偉大なプラトンにとって、師ソクラテスとの出会いはきっと人生を変えるほどの衝撃だったに違いありません。
大衆の愚かさが彼の死を描いた顛末を語る『ソクラテスの弁明』を記していたときのプラトンの気持ちを想像する勇気は、僕にはありませんでした。
それでは。
コメントを残す